人間は小さい。
頭を使うのも疲れるものだ。今日は歌会で司会は他の人にお願いしたものの、集中して二時間はやはりまだ堪えた。夕飯後、それもお嬢に店屋物を買ってきて貰って昨日の残り物を夫にじゃーーーっとミキサーに掛け、こっちは半分を砕かず食べ、、、、てな手抜きの食事。それを終えたらもうダメ。リクライニングソファで軽く、と思ったら1時間の仮眠。なんてこった。時間が勿体ないなあ。
ただ今ハノイにいるという息子からのラインで目が覚めたのだが、ただ今台風のまっただ中らしい。30年来の大型だというが、そのせりふこっちでも聞いたような、、、?近頃は便利で、送られてきた動画付きのラインユースも簡単に訳してくれて内容が直ぐ分かる。こちらでもさんざんニュースで見たのと同じような映像が流れている。こうしたことはこれからどんどん多くなって行きそうな予感。
短歌の歌会に参加する人が少ない。理由は色々あるだろうが、歌会の面白さを知らないと言うことだろう。誰かにジャッジされたくないという思いもあるかも知れない。他人の歌を評価するなんてとんでも無い、と恐縮の向きもあるだろう。でもこれまで長く参加してきて、「短歌」というものの一番の魅力はここにアルのかも知れないと思い始めた。いや、かなり前からそう思っている。たかが一首だが、その歌の裏側や周辺に込められた意味合いは、すっと読んで全て理解出来るものではない。もちろん、読み手の自由な解釈があって良いし、文学はそもそもそういう物だろう。でも、出来うるなら作者の意図するところを知り、それが読者に上手く伝わってないならどうすれば良いかという技術的なものも教えてもらえるこういう会が欲しい。これが、学校の授業の様な物では面白くないが、みんな人生経験を積んだ一人前の大人だから、そこに自ずと相手への思いやりや同情がプラスされ、色んな可能性を探りながらの会話となる。もちろん積み残すテーマも出てくるが、その場で全て解決する必要も無い。自分の思いが何故伝わらないのか?そのヒントさえもらえれば、次に生かせると思う。そして思うのだ。短歌を詠むという行為は、自分の内面を、あるいは人生を振り返り、他者に優しくなり、自分の小ささに思いを致すという行為だと。
そう、人間は小さい。どんなに威張っている人でも。