しばしの贅沢。
今日は土曜日ということで、病院内もひっそりとしている。リハビリもお休みだから自主練しなくてはいけない。室内での訓練はしばらくやったが、これから廊下を歩くというのをやらなくてはと思っている。まだ歩行器だが、それほど頼らなくても良くなってきた。
当番の看護師さんもいつもよりのんびりしていて、四方山話も出てくる。大体の看護師さん達はこの部屋に入って驚く。瞬間湯沸かしポットからパソコンまであって、あたかも普通の部屋と化しているからだ。今日の看護師さんは物珍しがるだけでなく、何故そうしているかを熱心に聞いてくれる。そして良いことだと認めてくれるのが嬉しい。それは、ひとえに認知症予防のためということだが。「珈琲お好きなんですねえ。良い香り。」と言われ、確かに毎朝の習慣だった珈琲がここでもある程度楽しめることにホッとしている。これが無いと提供されるお湯だけではとてもじゃないがドリップ式の簡単珈琲でも入れられない。パソコンでこうしてブログを書きつつ思考力を保つのもとても良いことだと褒めてくれる。実際少しでも退化を遅らせようという涙ぐましい努力なのだ。
その人に、窓の外を毎日眺めていると話し、余りに人影を観ないのが不思議、と言うと、「いやあ、自分の事を考えても自宅にいるときはあまり 外に出ませんねえ。」という。どうやら仕事と家庭の両方は大変らしい。現代人は忙しいのだ。
かくして、日本の人口密集地はその割に人の姿が見られないというわけだ。、、今日もマンションの近辺は清掃員の姿ばかり。公園で遊ぶ子供の姿も無い。
今日は早いピッチで一冊の本を読破した。「i(あい)」というタイトルだ。小説というのは、多くの人の共感を呼ぶものもあるが、全くそうではない特殊性が強いものもある。この本は、多分多くの人が持ち合わせている感情を描きながら、主人公に特殊性を持たせて問題提起をしているように思えた。今世界で起こっている悲惨な事件の諸々を眉根を寄せて眺める人は多いだろう。しかし、だからと言って何も出来ない事に思いは至っても、それ以上の感情は湧かない。というよりそれ以上に心が高ぶるのを押さえつけている。いくらその事件に同情や憐憫を感じても、何も出来ないことに変わりは無い。ならば見て見ぬ振りをして、自分の日常をやり過ごすほか無い。幸い人は忘れるという武器を持っている。今日、どんなに悲惨な事件を知ったとしても、明日になれば薄らいでいるのが事実だ。それが自分の事で無い限り。。。。この本はそこにメスを入れたもののような気がする。
娑婆はどうやら寒いらしいが、ここは一定温度に管理されている。三度の食事もきちんと運ばれてきて、健康状態の管理もキチッとやってくれる。この部屋のトイレは一切どこにも振れずに用が足せるという現代の衛生管理の下に設計されている。行き届いたシステムで、職員の人達も親切。レンタルの衣類も十二分にあり、ゴミは毎日収集に来てくれる。本当に申し訳ない位の生活だ。元気を取り戻してくるとこうした感情が戻ってきた。おそらくはこのまま快癒に向かうのだろうが、、、、贅沢なことだ。