読書の秋。そして死。
今日は思いがけず時間が出来て、「死という最後の未来」というタイトルの本を一気読みした。石原さんはこのインタビューから2年後には他界しているから、おのずと読み手も感慨を深くする。特にあれほど一般人より濃い人生を送った人が、「死」を前にかなり狼狽しつつ、動揺もしていたようなのは、対談相手が飄々とした曾野綾子女史だったのでなおさら際立つ。女史は、「来るなら来い」的な、達観したところがあり、それはどうも幼少期からキリスト教に触れてきたせいもありそうな。でも、同じ信者が皆さんこのようなサバサバした人生観を持っているとは考えにくいから、作家ならではの物事を客観的に見るという特質からも来ているのだろうと思う。
思ったより面白かった。それに自分の為にも大いに勉強になった。女史は言う。「私は中年以降にしか、人生は熟さないと思っています。、、、十分に孤独を知ってこそ、人生は完熟していく。」確かにそうだと常々思っていたし、その意味で老いることは怖くなかった。
高校生から成人になっていく過程で、世の中の事などが、一枚一枚ベールが剥がれるように分かってきたという時期があったように、今は、暗い沼に清らかな雨が降り注ぎ、少しずつ沼の底が見えてきたような気がしている。その沼の一番深いところが自分の終着駅だろう。そこに到達するときに、出来ればある程度は意識があって欲しいと思うなあ。
我が母が亡くなる前日、あまり喋ることも出来なくなっていたが、お世話になった保健婦さんとか担当の職員の方に、一人一人手を取ってお礼を言っていたのを思い出す。自分の死をハッキリと自覚していたあの時の姿は素晴らしいと思う。あんな風に死にたいと時折思い出す。
今日は、ある小学時代の同窓生の奥さんから、彼が最近亡くなったと知らされた。OL時代に職場に尋ねてきてくれた彼ら男3人と一枚の写真に収まったことがあり、今も大事に持っている。これで内二人が亡くなった事になる。もう一人は消息も知らない。実はちぇちの練習で、ある場所を借りたことがあり、その時そこのトップだった彼には大いにお世話になった。明るくて、人の良さそうな笑顔が今もありありと思い出される。、、、そうか。彼も逝ってしまったか。数年前には、彼を加えて遠方からやって来た同窓生の女性共々楽しく飲んで食べた事がある。コロナ前だった。帰る方向が同じで一緒に歩きながら「また、こうして会おうね。」と分かれてからそういう機会が持てないままだった。、、、受け入れるしかない。
合掌。