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2022年10月

2022年10月29日 (土)

昼間はぽかぽか陽気だったなあ。

一年は早いなあ、と今日もつくづく思った。一年に一回回ってくる観劇の当番が来年の1月に当たっているとのことで、担当者会議というものがあった。今回は有名な俳優が来るというのもあって会員募集に力を入れて欲しいというのもメインの話の一つ。確かにもっと多くの人が集まると会の運営は楽になる。この自分も友人は多い方だが、同じサークルに入って貰うとその人達のお世話が大変。自分たちでメンバーになって自分たちで自分たちの面倒を見てくれるという自立したサークルが生まれるのが一番良い。が、そう上手くは行かないだろう。普通は興業でやってくる演劇をチラシかなんかで知って、興味が湧けばチケット購入という段取りになるだろうし、それが普通の観劇のやり方だと多くの人が思っている。が、そういう人がいつもいつも一定人数いるというわけではない。だから、定期的に演劇を楽しむためにはこういう会員制も良い手段だろう。劇団の公演を後押しするという為にも推進するべきなんだろうが。会員制を維持していくのも実は相当大変だ。。。

 

明日も忙しい。

お嬢があるオファーを受けて明日30分のステージをこなすため、それを聴きに行く。その後別グループの女子会にお誘い頂いている。昔ほど飲めないが飲み放題の予約だそうだ。嬉しいような、ちと心配なような、、、、。ま、お嬢が迎えには来てくれると言うから久しぶりに飲もう!今日は母親は明日の前夜祭とかで外食。故に孫べえはわが家で晩ご飯だったから、それくらいやって貰っても罰は当たらないだろう。

 

夕飯のテーブルでは孫べえは相変わらずデバイスを見ながら次から次へと黙々と平らげ、我々老夫婦はテレビニュースを見ながら時々感想を述べつつ食べ進めるという構図。それにしても相も変わらずニュースは面白くない映像のオンパレード。どこぞの知事さんは例の宗教団体との関係を問われて逆ギレの状態。へりくつを並べてあくまで正当性を主張する。昨日はおかしな女性議員が涙ながらにおぞましい会見をしていたし、こちらは未熟にも程がある。こういう人達を選ぶ人が居るのも罪。ま、解らないのかもねえ。何か起きないと。

 

 

2022年10月27日 (木)

失速の巻き~。

朝は比較的元気だったので、家事もそこそこ捗った。が、検便の容器を貰うためお目当ての病院に行き、それを受け取って帰る段になって、なんとなく元気がなくなる。病院嫌いの性格もあるかも知れなかったが、このあまり楽しくない外出に加えて面倒なATMにも立ち寄る必要があって、○○タウンの駐車場に入れる。でもって、そこでお昼も済ませようかとか、そういえばユニクロにも行きたい様な気も、、、、とあれこれ考えていたものの、結局銀行に振り込み以外は何もする気力が湧かず、そのまま帰宅。

近頃こういうことがよく起きる。最初に立てた計画が完遂することなく頓挫してしまうということが。以前の自分にはあり得ないことだ。何かを始めても途中で失速してしまうことが多々あるのは、もしや老人性鬱?

全て、どうしても必要でないということで気力が萎えるのかも知れ無かった。ま、しゃあない。歳なんだから。それはそうなってもある意味仕方が無いことだろう。まあ、まだ動けている方かも知れない。

と自分に甘い評価をしつつ、ただ今ちぇちのDVDをお世話になった方々にお送りする作業に取りかかっている。一言ご挨拶分を書きながら、なんだか本当にあったこととは思えない気分。もしくは、随分前にあったことのような、、、、。あれから3ヶ月。季節は変わり、世の中も変わっている。

いつの間にか、虫の声も全く消えた。

2022年10月26日 (水)

お婆ちゃん。

高松市から高齢者の特別健康診断を受けよ、というお達しに漸く着手した。今月中にやらなくてはいけないものもあるからギリギリだった。忙しくてそんなこと考えてる暇はなかった。といって、ある友人のように一切健康診断は受けないという思い切りの良さもない。普段節制しているわけもないくせに、こういうとき妙に気になる。ま、なんとか滑り込みセーフとなり、トントンと全てやることになった。今時ネット予約が出来るからねえ。便利な時代になったもんだ。

 

先日読んだ内舘牧子作「エイジングハラスメント」はおもしろかった。単に面白いだけでなく、チャンと社会風刺が効いている。後書きで、テーマを思いついて10年経つのに、世の中全く変わってなかったので書いたとあったのは確かにその通りだろうと思った。特に男性の中に女性の年齢についての独特のランク付けがあるのは不思議だ。我が友人は82歳でも、「おばさんと呼ばれて頭にきた。」とのたまう。「おばあさんよりましやん?」と言うと、「そんなの当たり前。おばあさんなんか言われた日にゃあ、、、、」と怖い怖い。十分お婆ちゃんだけどねえ。私たち。

お婆ちゃんと呼ばれて素直に返事が出来るのはいつなのか?きっと彼女にはそういう日は死ぬまで訪れないだろう。

考える葦。秋風に揺れる。

本日は葬儀。うららかな秋日和は、叔母の逞しくも充実した人生の最後を飾るに相応しいものとなった。こういう時期なので慎ましい葬儀ではあったが、高齢者から小さなお子さんまでが参列して、その幼い手が棺を担いだ時は思わずみんな微笑んだ。この子が叔母の年齢まで生きるにはあと90年以上あるわけだ。この場に居る殆どの人が居ないだろうが、この子はこの日の事をいつまで覚えているだろうか?

頂いたお弁当を海が見える岩壁に移動して娘と二人で叔母の事など話しながら食べた。これも供養のつもり。娘はそのまま出勤して、こちらは何をする気力も無くとにかく帰宅した。

途中でお借りしている軽トラの返却が必要だと判明するも、担当のM君は仕事中で大慌てするというおまけ付き。結局勘弁して貰って、彼の勤務が終わるのを待ち、ガソリンを満タンにしてお届けし、彼を家まで送り届ける。せっかく寒い中出かけたから、ついでにとばかりプールに通う申込書類を届けに行く。たまたま出てきたのがいつものインストラクターで、若いがしっかりと丁寧な対応で、決して年寄りを不愉快にさせない気遣いもある男性。継続のこつは、レッスンを受ける事だという。そこで顔見知りが出来、喋らないまでも笑みを交わすだけでもお友達になれて長続きします、と言う。な~るほど。それはあるかも。先日来一緒だった人達とも、最後の会に、「どうします?継続されます?」と二三人と声を掛け合ったもんねえ。どうやら今回20人近く居た中で、継続の申し込みは数人だったようだが、、、。さて、継続出来るか?これから寒さに向かうもんねえ。帰宅して夫に告げると大賛成。あちらは本日プールがお休みで、代わりにマッサージに出かけたようだった。ま、頑張ってみようか。叔母の年までは生きられないまでも、せめて元気で居たいもの。

 

今日のニュースで、安部元総理への追悼の演説を野田元総理がやったとあらましが流れた。完全版ではないが、いかにも野田氏らしい感傷的な内容だったと思う。ある意味美しい内容だったとも思う。と同時にこれが政権を交代せざるを得なかったこの人の弱さだったようにも思った。政治の世界はとかくこういう人が生き憎いのではないか。

ともあれ、一時期でもこういう人間的な人物が国のトップだったことは、当時の日本人がそれを求めていたことがあるということだ。そして、それは結局儚く散ってしまったが。。。後に続く政治不信の一端の責任がこの人にもあるように思うが、どうだろう?

しかし、誰もが、完璧ではない。完璧な人など存在しない。長くても一世紀しか生きられない人間のつかの間の右往左往。

せめて、自分を出来るだけ正しく慈しむことだなあ。自分に繋がる多くの人々を、、、。

2022年10月24日 (月)

泣いたり笑ったり。。。

母の妹が身罷った。朝早く叔母の長男から電話で知らされてまず頭に浮かんだのが、「ああ、百歳に届かなかったか。」というものだった。12月がお誕生日だからもう少しだった。が、それがどうしたのか?とすぐに思い直した。叔母は、あるいは百歳を目指す気持ちがあったかも知れないが、そんなことよりこれまでのような自由な生活を今一度送りたいと切に願ったのではないか?夫に先立たれて以来の暮らしぶりは、この私の理想であった。お料理が好きで、色々作ってはご近所に配るのが趣味。私も何度か頂いたことがあるがとても美味しかったのを覚えている。そして何より読書が好き。読み耽っていつの間にか朝が来た、ということがよくあるらしかった。クイズが好きで、ナンクロなど根気よく解いては葉書で応募していた。そのために息子に叱られて取り上げられた電動自転車をこっそり購入して、いつものように郵便局まで走って行ったと笑って話す人だった。そんなお茶目な叔母が今日は遺影となって詰めかけた人々に微笑んでいた。夫婦の間には子供が三人。全員男で、それぞれが子供持って孫を入れると30人と聞いてからずいぶんになる。全員の名前を覚えている自体驚異的だったが。今はそれぞれの家族も含めると一体何人になるやら。体調を崩し入院中に、急な心不全だったという。医師である息子の勤務先の老健施設に入居を決めた矢先だったというが、自宅に帰りたかったのだろう。叔母が何より欲しかったのは、「自由」だったと思うから。三姉妹の真ん中。我が母の死をよく悼んでくれたものだ。生前会えば何時間でもおしゃべりしていた仲良し姉妹。残るは92歳の叔母一人。仕方が無いとは解っていても、無念の思いがこみ上げる。時は残酷だ。

 

今日も実はハードな一日。朝はこちらの車に積んだ物を取りに来てくれて、そのあとすぐに移動して軽トラの後を付いて塩江まで。後ろが全く見えないほどの積み荷だったので、安全のために付いていったのだ。で、途中から車を三木町に廻して約束してあった友人宅でT女史をピックアップ。屋島までお連れして、そこでお昼をご馳走になり急ぎ逆戻りしてT女史を送り届けたら流石にちょいと仮眠しなくては動けない。というのも、夕べは何故か全く眠れず、七転八倒の挙げ句今朝の叔母の訃報だった。そりゃあ疲れる。

てことで、お通夜の前に少し仮眠できたので元気を取り戻し、夫と二人やってきた娘の車で出かける。でもって、本日は夫の81歳の誕生日。通夜のあと娘の奢りでとある和食のお店に移動。勿論孫べえも付いて来たが、まあ食べる食べる。この年頃の子供を連れて行く店ではないなあ。丁度食べ終わった頃息子からテレビ電話。ご機嫌の夫の声がデカくなるのを制止しつつ楽しく会話。ま、こういう日があっても良い。孫べえから優しいメッセージとプレゼントを貰った夫は、「明日死ぬに違いない」と言いつつ破顔一笑。

外は静かに雨が降っていた。

 

 

2022年10月23日 (日)

疲れ過ぎた。

さすがのおみっちゃんも今日は疲れ切った。長らく借りていた衣裳部屋をみんなで集まり、完全撤去を目指した。が、どうしても大きい物は後日になる。軽トラに山盛り積み込むまでは出来たが、今日は日曜日。明日でないと持ち込めない。M君がそのトラックを自分ちに持ち帰り、彼の車を取りに行くために彼をこちらの車に乗せて再びお借りした所に行って、今日はお返し出来ないとご挨拶。それが4時前で、そういえば昼ご飯まだだと一人うどん屋さんへ。

案の定夜ご飯は全く欲しくない。が、夫の為には準備しなくては、、、。が、その前に兎に角お風呂。炭酸風呂でゆっくり疲れを取り、一寝入りする間もなくご帰還遊ばす夫のために我ながらあっぱれなチャチャット料理。こっちは30分ほどの仮眠。いつでも寝られる幸せ。目覚めてから気になっていた「ドライブマイカー」をAmazonで見る。これは劇場で見たかったという思いも残るが、とにかく見て良かった。確かに賞をもらっただけある深い内容のもの。これほど文学的な映画もあまり無いだろうと思わせる秀作だった。村上春樹の難しい原作をこうも見事に描いたか、と役者と監督の素晴らしさに唸る。日本にこういう人達がいることが誇らしいと思った。

10時半という今の時間にもおなかは空かない。で、自分へのご褒美にシャインマスカット13粒食べて本日は終。

明日は朝早くに残りの衣装を取りに来る人もいて、安全のため、あの軽トラの後ろを付いていく約束もしている。なんせ、荷物が一杯で、運転席から後ろも見えにくくなっている。長く飛び出している手作りの槍や剣、キンキラの椅子の脚がドサ回りの劇団の車みたいになっていて、さぞかし目を引くことだろう。やれやれ。

残った大物は、市に電話して撮りに来て貰おうと思っている。これも又、一人二人では出来ない。ま、うん十年の活動の結果だ。

てるてる坊主テル坊主、、、。

明日は遂に衣裳部屋の片付け。みんなでやればそれほど時間は掛からないと思うが、それでもちと大変だろう。何時間かかるか、いずれにしてもこっちはもう使い物にはならないだろう。ついつい手が出て足が出るとあとから大変だ。心して出かけなくては。

今日は日本画の展覧会に出かけた。洋画とは違って全体として静かな印象。お目当てのお二人はそれぞれ個性的な絵を出してあって、なるほどとそのお人柄がにじみ出た画風を楽しんだ。入り口でバッタリ知人にお会いして、二、三分ではあったが立ち話。ホントに高松は狭い。しかも、出演者にコメントを書こうとすると、すぐ前は友人が書いてあり、どうやらすれ違いだったようだ。でも、こうして知人達が表現することに意欲的な人が多いのは嬉しい。

表現方法は違っても、昨日お会いして長くおしゃべりしたYさんという人は、子供達に、それも多少生活面で問題視されているようなお子さんを中心に演じることや表現することを指導している人で、自身はお子さんを持たないが、沢山の子育てをしているような人。こういう人のお話はその苦労話も含めて素晴らしいと感じた。しかも一年二年の話ではない。気持ちを萎えさせることなく継続していること自体凄いことだ。こういう人にちぇちの衣装たちが役立ってくれればこれ以上の喜びはない。

明日は気温が低いらしいが、雨さえ降らなければ、、、、。あ~した天気にな~れ~~。

2022年10月21日 (金)

疲労困憊、久しぶり?

午前中に高松市主催のフレール予防のためのプール授業を受講し、帰った途端婿殿からランチのお誘い。鼻のきく彼はいつも面白いお店を開拓している。帰りにこっちはお初の陶器屋さんへ。ここは、以前町中にあり、OL時代は陶器が好きでよく通ったものだ。が、あれからン十年。今や全く手が出せない。まだまだ断捨離すべきものを未練たらしく飾ってある後ろめたさの中での生活だ。一切食器は買えないと肝に銘じて出かけた。しかし、〇では折角来たのに勿体ない、とささやかな飾りガラスと体温を伝えるバターナイフを購入。これで溜飲が降りたのだから可愛いもんだ。

ついでに讃岐マルシェにも寄り、美味しい香味料をゲット。欲しかったが、あそこまで行くのは遠すぎるから、保留にしていたもの。

そして次なる予定は衣裳部屋の色々を貰って下さるという団体の方をご案内。結果、その方の乗用車に満杯の上に、此方の車にも乗せて運び、かなりの部分がはけた。これは日曜日が随分助かる。それはとっても良かったんだが、気が付けば知らず知らずに動いていて、折角良くなっていた股関節がジワリと痛み始めた。これは要注意だ。何度も上がったり降りたりしたのが良くなかった。ブブブの反省豚。ついつい目先の事に気を取られてしまうなあ。悪くならなければ良いのだが。。。

で、ほぼよれよれだったので、本日はいつものお惣菜屋さんでいくつかゲット。これで夜ご飯は安心とばかり帰宅すると、まだ疲れが取れていないらしいお嬢が仕事帰りに寄るという。でもって孫べえの髪をパパが切るというので、結果3人ともやってくるという。晩ご飯そっちね。と至極簡単なご挨拶。となると、現金なもので、俄然料理熱が出始める。頂いていた大物の野菜、冬瓜とカボチャをこんな時にやっつけないと、実際二人の食卓ではさばききれない。ベーコンだけ買ってきてと伝えて切るところから始める。

やって来たお嬢にも手伝わせて突然の賑やかな夕飯の準備中に夫がプールから帰ってくる。ま、こういうのもたまには良い。が、みんなが引き揚げた途端、後片付けも出来ず、とっととお風呂。近頃はまっている炭酸風呂で、iPadで映画を見ながらゆっくり疲れを取り、、、、一日が終わろうとしている。あの汚れ放題のキッチンをどうするかなあ?このまま寝られたら最高なんだけどなあ~。。

2022年10月20日 (木)

捕まった!

またしても内舘牧子に捕まった。今回は、「エイジハラスメント」という単行本。例によって登場人物の口の悪い部分も面白いし、その辺に転がっていそうな男女のお話は勢いがあって面白い。仕事の合間に読み始めて、残すところあと100ページほどになっている。これは今夜完読しないと眠れない。明日はプールの予定だし、睡眠時間は削れない。ガンバッテ読もう。でも、一番合うメガネの行方が、、、。だから、三十半ばの女性が若く無いだの取り返しが付かないだのとわめいているこの小説は遙か過ぎて、、、すっかり過去の物語ではあるんだが。まあ、文章が面白い。読んでしまおう。

 

これは一種の現実逃避か?世の中のニュースはロクな物が無い。気分が晴れないことばかりだ。

 

 

このところ夕焼けがキレイ、らしい。

丁度その時刻は一日で一番忙しい。故に夕焼けの美しさは、もっぱらFBにアップされた物などを見ていたら、今日は友人が自分ちから撮った写真をラインで送ってくれた。ホントに綺麗だった。明日は生で見ようかと思う。

孫べえの小学校では漸く修学旅行を実施した。バス旅行で京都奈良がその目的地。大阪はカットされたようだ。初めての体験で行く前からハイになっていたが、帰ってからもテンションは保たれていた。迎えに行った母親がお土産をエサに一緒に夕飯を食べに来た。なかなか美味しい饅頭をこちらに、ジイジイには依頼されて生八つ橋。ところがその饅頭を美味しいからと半分は母親が持ち帰った。まあ、全部食べるのもあんまりよろしくないかも、ではあるが。

しっかり食べて、おなかをさすりさすり、「ああ、おなかいっぱい。高松に帰ってホントに良かったあ。栄養の心配だけはないわ。」と帰って行ったが、ったく。

こっちも若い頃は母に世話になったことを思うと何も言えない。それに、ちぇちの事が脳裏を占める割合が減り、余裕が出来た。それほど疲れずに彼らの世話も出来るといことだ。順繰りかな?てことで、本日も夕焼けは見られなかった。

 

週末ちぇちの衣裳部屋の完全撤去を計画している。長年ためてきたものが山ほどあって、勿体ないとは思うが仕方が無い。若くて元気だった頃は、貸衣装屋さんを行脚して、色んな衣装を安く分けて貰ったもの。それに、公演の度にかき集めたものや、手作りの道具類もある。公演の度に揃えた普段は着られないような衣装も沢山ある。誰か要る人居ないのかしら?明後日は子供ミュージカルをやっている人が幾らかは持ち帰ってくれると思うが、、、、。

ある人がテレビで言ってたが、困っている国へ送るものに、日本人は ドレスを入れたりする。考えが足りない!と。確かに。そんな余裕があればこそだ。ま、従ってそういう風な事にも使えないってこと。全部空っぽにするのはかなり大変だ。何とかせねば。

 

2022年10月18日 (火)

親子飲み会。

昔なら、男の子が成長して一緒にオヤジと飲みに行くようになるのが夢、とは一般の父親が思うこととして定着していたが、今は、娘の成長と共に一緒に母が飲みに行く時代、かも知れない。今宵は娘と二人で串焼き屋さんに出かけしこたま飲んで食べた。コンサートの打ち上げのつもり。帰りは勿論テクノで安心して飲めた。テクノを使うのは久しぶりだが、ちゃんと 登録していてくれてすぐさま来てくれた。といっても40分待ち。矢張り皆飲み会もやっているということだろう。このお店もびっちり席が埋まっていた。そして、やっぱり美味しい。炭火ってどうしてこんなに美味しいんだろう?と話ながら板さんの器用にくるりくるりとひっくり返す様子を眺めつつ色々頂いた。といっても、アルコールはそれほど飲めるわけでも無い。こっちは生ビールと日本酒一合。あちらは生ビール二杯で終。可愛いもんだ。

締めのラーメンが又美味しいが、半分は娘。今日は昼食抜きで臨んだが正解だった。とにかく沢山食べられなくなったわけだが、、、、。カウンターを埋める人達はみんな若い人ばかり。カップルも多い。これだよねえ。この光景はホント久しぶりにみた。こういう眺めは、まるで平和の象徴のようではないか。心なしか立ち働く店員さんたちも楽しそう。声に張りがある。

今日の親子の会話は、もっぱら娘の東京土産話がメイン。お上りさんよろしくリッツカールトンで夕食を食べた話とか、もう笑える話ばかり。なんせグラスビールが一杯2500円だったというから恐ろしい。こちらだと、簡単なコース料理が食べられる値段。こういう所を日常的に使う人達がいるからなあ、東京には。こちらは負け惜しみでなく、別に行きたいとも思わないが。へえ、はあ、そう?で終わる話だ。

そんなことより娘なりの人脈で高名な評論家の人と会って話したこととか、コンクールを聴きに来てくれた劇団の人とのお話とか、東京時代の親友との会話がとにかく面白かった。どこに行こうと、結局は「人」だなあ。

昼間はカナダ人の友人から電話があり、来月又来高するという。どうやら彼の友達が股関節の手術をするので、通訳を兼ねての事らしい。今から楽しみなことだ。で、今回誰が会いに来てくれるか教えて欲しいと言う。何故?と言うと、皆さんにお土産を持って行く準備があるから、と言うのだ。そんなこと必要無いよ、と言ってもいや、恥ずかしいから絶対教えてと言う。こういうところ、日本人以上に律儀。参るなあ。

日本に来るのが解禁になったというニュースが世界中に行き渡り、彼の友人達から頻繁に電話が入るらしい。その人は勿論、友達の友達まで泊めて欲しいというらしい。ヨーロッパの人は特に長期滞在の人が多いという。断れないのが彼の性分。お気の毒に。。。。でも、そうやって人の輪が拡がっているのも事実。彼にとって世界は一つ。どうやら地球は狭いらしい。

卒業。

今日は最終勧告を受けるために朝イチで病院へ。月曜にしては心なしか患者が少ない様な気がしつつ、予定通りMRIを撮り、その後診察へ。今日は、松葉杖をつかないで院内を持ち歩いた。それでも特に痛くもない。これは良い成績をもらえるか?と期待。結果、医師は写真を見つつ相好を崩して迎えてくれる。「これならもう卒業ですね。」と、室内を歩くように言われ、「問題ない。」と太鼓判を押してくれる。「お土産に痛み止めを出しましょうか。」と言われ、やはりそれは頂くことにした。もしもの時のお守りだ。「但し、転倒したら逆戻りですから、十分ご注意を。」と念を押される。そして、最後に、「これで痩せたら完璧です。」とも言われるが、「先生、安静にしていて痩せるのはとても難しいです~。」と訴える。が、それについては取り合ってくれない。ま、そうでしょうとも。

あいにくの雨だったが、気分も軽く病院を後にする。ここ数日ネットやテレビ番組で、「高齢者は痩せない方が良い。」と盛んに言われてるのを、先生は知らないな?と内心でブツブツ。どっちが正解なのかは解らないが、、、、。ま、ぼちぼち行こう。

明日から修学旅行だという孫べえと父親も一緒にランチにでもと電話すると、今日は学校とリモート授業だそうで振られてしまった。祝杯は後日だ。

で、今日リニューアルオープンしたラーメンやさんに行ってみる。混んでたら止めるつもりが、丁度待ってくれていたように車も入るし、待つ人も居ないタイミング。久しぶりに美味しくお目当てのラーメンを頂き、表のお花を抜いて帰って下さいと言われ、遠慮無く数本頂く。丁度お花を切らしていたからこれは嬉しかった。花は良いなあ~。これほど心を和ませてくれるものは他にあるだろうか?

夕飯を済ませてから空港に娘を迎えに行く。よれよれで食欲もないという。ったく、これだから困る。しきりにもう東京には住めないとか、都会は疲れ過ぎるとかマイナーなことばかり言う。ま、年取ったということだ。コンクール自体想像と違っていたのもあったようだが、結果は三位に入り、参加する事に意義があるとか言って出かけた割には好成績だったのはまあ良かったか。全国から16人集まったようで、一番驚いたのがコンクール専属のピアニストの演奏だったとか。これぞシャンソンのピアニストと感動したそうだ。流石東京には逸材が多く存在するということだろう。色々勉強にもなったのだから良しとしなくてはね、と労う。

しかし、コンクールというのは確かに嫌なものだ。評価を気にすることなくのびのびと歌えるのが一番だ。が、自分のことを考えてもよくぞあれほど声楽コンクールに出たものだと若い自分に感心する。今思うのは、コンクールというのは結果ではなく、そこまで持って行く準備期間こそが大切なのだろう。羽生君を見ていてよく思った。本番で好成績が出たり出なかったりは、どちらでも良い。そこまで多くの事を考え、自分を鍛え、その場に「臨む」事こそが意味のあることなんだろう。そういう意味では、自分自身もコンクールに出ることによってステップアップ出来たんだろうとは思う。

明日は晴れるようだ。

 

2022年10月16日 (日)

コンサートの日。

今日は、以前ちぇちの公演で指揮をして下さったことのあるバリトンT先生のリサイタルだった。友人と二人で出かけたが、その間孫べえを一人で留守番させなくてはならずちと心配ではあった。マンションの方が安全だとは思ったが、イチイチ送り迎えを繰り返すのが面倒で、本人もここに居ると主張するので、絶対人が尋ねてきても出るなと言い含めて出かけた。

秋晴れの清々しい天候で、友人とおしゃべりしながらの往復ドライブも楽しんだ。

T先生がかつて大手術を3回もされていたのは全く知らず、ご案内を貰って大丈夫なんだろうか?と心配しつつ出向いた。

確かに以前よりも少々スリムになられて表情も以前の精悍なお顔つきとは違っていた。そしてイタリア歌曲から日本歌曲からオペラへとプログラムが進み、確かに病後を思わせる場面も何カ所かあった。高音が極めて困難な様子が見て取れた。しかし、観客の拍手には段々力がこもり、一曲一曲しっかり聴いているよというメッセージの様になった。私の知る限り以前のT先生ならあり得ない歌唱になっていたのだが、当然観客もそれを察知しての拍手だった。途中、ピアニストが曲の解説をされて、それがまあ、とてもピアニストとは思えない流ちょうな話運びで、一曲一曲丁寧に話された。時々のユーモアも嫌味の無い自然なもので、友人と二人大いに笑った。そして何より、そのピアニストの優しい気遣いがT先生を大いに助けた。そして、予定されていたのかどうか、途中でT先生がマイクを手に取り、「皆さんお気づきとは思いますが、、、」と正直なご自分の気持ちを話されて、過去の病歴や歌にかける情熱について話された。これは歌い手にとってはかなりのプレッシャーだったのではないか?こういうことは、賛否が分かれるかも知れない。仮にも入場料をとって聞かせるコンサートで、歌い手が言い訳とも取れることを話してしまうというのは、けっこう辛いものがあったと思うのだ。しかし、T先生が赤裸々にご自分の現在を告白し、深々と頭を上げられた姿には、会場の誰もが応援の拍手を送ったと思う。多少なりとも歌を勉強している自分自身も、T先生の高音を出す前の恐怖が理解出来た。懸命にやるべき事をやっても、思うように歌えないという現実に、打ちのめされている様子もよくわかる。しかし、それ以外の部分は以前のままの素晴らしい歌唱力と声で会場を魅了したのも事実。流石、しっかり研鑽を積んだ人の歌だった。

それら全てを俯瞰して、今日のコンサートは行って良かったコンサートだった。友人も、「人の声って、何故か癒やされるのよねえ。」と満足した様子。これだよねえ。大切なのは。立派な破綻のない演奏もそれはそれで良いけど、人間同士、心の交流も大事。ひょっとしたらそっちの方が大切かも知れない。

人間の紡ぎ出す美しい心の織物、今日も身に纏う。

 

可愛いかったり憎らしかったり。

ちぇちの公演があったため、ずいぶん前から孫べえのお泊りはなかった。本当に久しぶりに我が家での自由を満喫している。といっても、よくよく聞けば自分ちでも同じように自由にしてるというが。

しかし、孫というのは面白いもんだ。その外見の変化もものすごいスピードで、花の蕾がだんだん花弁を開き形を変えるように。あるいは小さな若木が枝を伸ばし葉をつけどんどん繁るように、著しい変化だ。容貌なんかも本当に驚くほどで、食事をパクパクむしゃむしゃと食べているのを見ていると、これが本当にあの孫だろうか?と疑うほどの変化で、しげしげと眺めてしまう。いつの間にかニキビ面だし、あと数年もしたらおっさんの雰囲気も出てくるんだろうか。

が、二階で寝るときに、「みっちゃんの部屋の窓を閉めてね。」と声をかけると、急に真顔になって、「絶対無理。自分の部屋だけで精一杯だから。」と宣言する。すでに夫は二階の自室で寝ているんだし、独りぼっちというわけでもないのに、折り紙付きの「おとっちゃま」である。こういうところは全く子供のまま。

わが子のことを考えても、兄のほうがだめで、いつも二階に上がるときは妹に一緒に行って、と頼んでいたのを思い出す。いまや偉そうに大学で教鞭をとっているが、、、、そういう時期もあったんだよ。と内心ほくそ笑む。

でまあ、食事は優に我々の倍の量をパクリと食べてしまう。文句も言わず食べるのは、作り甲斐があるというものだ。が、今宵食卓に着くや否や、「よく考えたらみっちゃんちでお泊りするメリットって、無くない?」ときた。「それどういうこと?」と聞くと、どうやら親との話し合いで自宅にいてもだいぶ自分流に時間を過ごせるようになったらしい。自分の意見を十分伝えきれてなかったときは、爺さんばあさんを手玉に取る方が簡単だったようだが、自分の成長とともにそこはクリアになったようだ。振り返って、「どうしてあんなにみっちゃんちにお泊りしたかったんだろう?」と自問している。ちぇっ!つまんないなあ。

が、親の都合でこれからもこっちにお泊りというのはあるあるだろうが。

友人も今日そんなこと言ってたなあ。うちの孫べえと同い年だが、女の子の方がそういうのも早いらしく、もう長いこと一緒に買い物や食事に行けてないよ、という。なるほど。これも成長というものなのか。

 

時は流れる。

2022年10月14日 (金)

ビックリクリクリクリックリ。

疲れすぎていてしばらくやらなかったドジをやってしまう。約二時間余りお風呂のお湯を出しっぱなしにしてラジオを聴いていたというお粗末。

朝早く空港まで娘を送っていき、帰りにJAの市場で買い物をして帰り、明日からお泊まりに来る孫べえの為におでんをしこたま仕込む。午前中はそれで埋まり、午後になって高齢の母子さんのご来店で、3時間立ちっぱなしのお仕事。途中でBGMにしているNHKFMで、聞こえてきたのがちぇちに縁の深いM氏の声。最初の名前を聞きそびれたので、違うかなあ?と思いながらも話し方や声で判断。間違いない。今日のテーマはドニゼッティで、以前ちぇちで取り上げた演目、「愛の妙薬」がメインに説明されていてとても懐かしかった。ドウルカマーラをやったH先生の事は、はまり役だったなあ~と先生の声や仕草を思い出す。ネモリーノのI先生にはうどん屋をやってもらい、実際にうどんをこねて貰ったなあ。とかとか思い出しながらお客様を無事終えてご挨拶して送り出す。そして暑くて汗をかいたので、お風呂のお湯を捻ったのだった。ところが、そこから番組にすっかり引き込まれてしまい、それが終わるまでの2時間ずっとお湯を出しっぱなしになってしまった。

そのドジで、がっくりきて、遅くなると言う夫を待たず先に食べ、顔を見てからお風呂に入る宣言をしてドボン。

それにしてもM氏は凄い。いきなり4時間の長時間番組オペラ・ファンタスティカの担当者になるなんて。着々とお仕事をこなしている。素晴らしい。以前からこのクラシック番組の評論家は独特な喋りで如何にも学者という感じの人だったが、彼も自分の世界を築いて欲しいなあ。

驚いたのは、今日の放送を全く知らず、聴いたのが全くの偶然だったこと。店内のBGMはCDをかけることもあるから、今日の偶然は凄すぎる。

 

明日の萩原朔太郎のコンサート行きたいなあ。行けるかなあ?

2022年10月13日 (木)

女、女、おんな。

どこぞの偉いさんが、「女性が多いと話が長く会議が長引く」と言ってヒンシュクを買った事件があったが、本日の会議は十数名の内一人を除いて全て女性。年齢は一番若い人で50前後。私より高齢の方も居たようだった。それぞれが発言し、議題を粛々と進めるが、一人が長くて困ると言うこともなく皆さん全体を眺める能力の持ち主。矢張り、あの問題発言は偏見だったと今更ながら思う。

本日は香川市民劇場の事務局でのサークル会議の日であった。五百人以上の会員をこうして少しずつ集めて、全員の声が反映されるように運営していくわけだが、これはかなり大変な作業でもある。事務局を引っ張っているのは、まだ若い女性で、彼女の父上が長くやっていた事をしっかり受け継いでやっている。その若すぎる父上の死を乗り越えて、すっかりそこに居場所を確立しているのは素晴らしい。香川に演劇の文化を絶やさないという取り組みを長くやってきたY氏。氷河期とも言われる会員が極端に減った時期も知っているが、一時期は4千人近くに増えたこともあった。それは時代の流れに翻弄されているとも言えるが、忍耐強くポリシーを守り続けた一人の男性の夢の道程でもあった。どんなときも柔和な笑みを絶やさず、人々に寄り添っていた。彼の死を悼む多くの舞台人が全国から駆けつけ偲ぶ会に参列したのはまだ記憶に新しい。これからは、新しいやり方も取り入れつつ若い力で継続していくことだろう。ほんの僅かな力だが、自分自身もこうして関わらせてもらえることを喜びたい。

次回の演目は、イプセン「人形の家」主役は有名な土井裕子で、今回は音楽劇だというから期待も膨らむ。女性の生き方を描いた普遍的なテーマ。さて、どのように料理されているのだろう?楽しみなこと。

 

マイブームの読書の秋は継続中。「ジヴェルニーの食卓」はアート好きには特に面白い作品だった。一枚の絵を見ての想像力は流石の作家の目。時代背景の研究もしっかりされていて面白かった。

家事をしながらの読書はもっぱらオーディブル。こちらは気楽に聞ける娯楽物。推理小説やらミステリーものが面白い。でも矢張り紙の本には叶わないなあ。一行を何度も繰り返し読むという作業が出来ない録音は、なんとなくフラストレーションが溜まる。が、そのままスルーして先を聞くので、浅い理解になっていると思う。作者に悪いなあ、と思ったりして。

 

でも、生活の中にこうして文学や音楽や演劇があるということはナント有り難い事だろうと思う。

おっと、明日は早朝に上京する娘を空港まで送るお仕事があった。もう寝ないと。フランス大使館主催のコンクールに入賞して本戦に出るわけだが、本人は参加することに意義があるとかで、久しぶりに東京を堪能してくるというのが目的らしい。ま、それも良いでしょう。そこでの成績は全く気にしてないらしい。やれやれ。

 

2022年10月12日 (水)

一日中眠い。

お疲れモード全開。やっぱり年は争えない。気持ちだけでは駄目だなあ。その気持ちも怪しくなってきている。同年代の人達はみんなよく解ってくれて、もっぱら慰めてくれる。が、不思議と股関節の痛みは和らいでいる。勿論薬はずっと飲んではいるが、、、。とはいえ油断大敵なのも解っている。取りあえず来週の検査結果を待とう。

先ほどは友人から電話で、無くなったご両親の家を持て余している話を聞く。とりあえず庭の木だけでも何とか切らないと、と業者を紹介して欲しいという内容。わが家が以前やって貰ってる事を知って居ての事だったが、ついでに色々話して住まなくなった家の処分が大変だという話になる。何でも税金が更地にすると跳ね上がるらしい。壊すに壊せないとか。建てるときはそこまで考えてないなあ。うちも子供は困るだろうなあ。どうするんだろう?なんて、他人事みたいだが、実際考えが及ばない。ま、どうとでもしてよね、の心。

 

NHKの朝イチで、近頃の若者言葉の特集をやっていて面白かった。ある学者が言うには、あれは「方言」だそうだ。が、方言には、どこか標準語に近い所もあって、なんとなく意味が想像できるのも多いが、若者言葉は全く意味不明なのが多かった。それ空中を飛び交っていつの間にか若者村の標準語に成長しているというのも不思議な話だ。おそらくSNSやなんかで拡がるからすぐに共通語化するんだろうなあ。

今日のニュースでイランでの暴動が取り上げられていたが、政府がそれを抑えるためにSNSを禁止したという。どこぞの国の話でも聞いたなあ。最早、こういう手段の国民の声は抑えられなくなってきているんだろうなあ。良い方向で使われるのは大いに賛成だ。

が、なんだか、どこもかしこも騒々しいなあ。。。何も起きない日本が異常に思えてくる。

 

2022年10月11日 (火)

声。

シャンソンコンサート終演後、様々な声が寄せられている。多くの人が当人より年上の方々。矢張りこのジャンルは一定の層の方に特に受けが良いようだ。皆さんの声を総括してみると、「演技と歌が一体化していて良かった」というものが多い。これは最初からの目標だったので、一応合格点をもらえたと解釈。中には歌の専門家の方もいらして、クラシックの先生方には、声量と歌唱力に高評価を頂く。これについては、娘からは厳しいと言われるが、この母親の理想とするところに近づけようとの努力が実った形だ。クラシックだろうが、ポピュラーだろうが、「声」が一番だと思っている私。その声にカラーがあるのは良いが、歌う人によってその魅力を最大限引き出す歌い方が最も良いのではないかとかねてから思っている。兎に角無理はイケナイ。自然に良い声が出るようになるには、矢張り訓練が必要だと思ってのことだ。

「声」と言えば、多くの人から、「お母さんとそっくり」とか、「あまりに似ていて時々錯覚して不思議な感覚だった」とまで言う人が居たのには驚いた。そこまで似ているとの自覚はなかったので、、、。ただ、声紋というのは指紋よりも似ると聞いたことがあり、そうなのかも知れないと思った。自分の声というのは余り正確には分かってないから、そう言われるとそうなんだと納得する他ない。

シャンソンならではのことで、「声」と「演技」で、帰りは涙目でご挨拶して下さる方が沢山いらして、それは本当に良かったと思ったことだ。心が動いてこその涙だから。

ちぇちでお世話になったW先生はご自身も以前舞台で歌われたこともあるので、興味がおありだったのだろう。6人もの生徒さん達を伴って来て下さった。「様々な愛の詩、やはりシャンソンは人間の血を揺さぶる奥が深い音楽だなあとつくづく思いました。3分間のドラマ最高でした。」とメールまでお寄せ下さった。

そして文学の先生からは、曲の間のトークをエッセイに書いたらどうか、という流石のコメントも頂いた。娘は残念ながら自他共に認める文才の無さ。それはきっと無いだろうが。。。。今回の作品には特に文学的要素が多々あり、本人も古めかしい言葉を覚えるのに苦労していた。「花を部屋に君を待てど、、、、もはや吾をたずねまさず、、、」てな具合。色んな歌詞が日本語で歌われているにもかかわらず、敢えてこれを 選んだのは、矢張りこの曲調とあの古めかしい言葉がよくマッチするからだろう。実際一番あの曲のムードに合っているとは思うなあ。

親子で来て下さった方にお礼の電話をすると、お嬢さんの癌が思わしくなく、近々入院されるという。そうだったのかと、お二人の当日のご様子を思い出す。気分転換になるかとお誘いしたが、まさかそんなことになっているとは知らず、、、。そんなことを考えると、娘はなんと果報者かと思う。いや、勿論誰がいつどうなるか一寸先は闇なんだが。。。今、こうして居られることに感謝あるのみだ。

2022年10月10日 (月)

シャンソン。そしてオペラ。

土曜の夜と日曜のお昼、娘のシャンソンコンクールを開催。ピアニストも歌い手も最後は練習飽きたというほど練習を重ねて本番を迎えた。こっちももう早く終わって欲しいと願うようになったが、遂に本番を迎え終わってみると、あれはもっとこうすれば良かったとか、色々反省点が出てくる。そりゃあ当たり前の話。どんなものをやっても完璧はあり得ない。

ただ、沢山練習してきて、矢張り集中力が最も充実したのは本番だ。本番でしか出せない雰囲気や味がある。そして、お客様と一緒に醸し出す空気感も。残念なのはマスクだ。通常だと、お客様のため息や感動の囁きやざわめきも演奏家に伝わり、それが一層曲に深みを与える。簡単に言えば盛り上がる。それが、一切無く、演奏する側は孤独に歌わなくてはならない。今回の演目はそれを考えて選曲したところもある。

そして、終演後に多くの人から沢山の賛辞を頂き、次回も是非声をかけて欲しいと言われる。全力投球した娘は、直後は「当分無理です。」とか言ってたが、さっき晩ご飯を食べて帰り、次回のチラシの写真はこれかな?とか送ってくる。フフフ。一晩寝たら回復したか。

 

演奏中のトークでも本人が喋っていたが、兎に角基本的な体力が無い人で、案の定終演直後から様子がおかしい。なんとなく変だなあと思っていたら、帰宅後SOSの電話が孫べえから入る。「みっちゃん、お母さんが動けないらしいから一緒に温泉に行ってご飯とお風呂よろしくだって。お母さんはマッサージしたいらしいよ。」多分そんなことだろうと想像していたから、「ハイハイ。すぐいきます。」となる。ところが、着いてみると孫べえ一人がのっそり出てくる。どうやら母親はホントに動けないらしい。「寝かせとこ」と二人で出発。孫べえは連休の最中なにも良いことがなかったので、夜遊び気分で喜んで付いてくる。こっちも足がむくんでたから、炭酸風呂にゆっくり浸かりたい気分だった。しか~し。着いてみると駐車場が満杯。ぐるぐる回ってどうにか止めて、今度はレストランが20人待ちくらい。でも先にお風呂よりおなかが空いてるから先食事が良いと言うので、仕方なく待つことに。40分待ちで、着席したら孫べえのお目当ての刺し盛り5人前が売り切れ~。(良かった)結局梅茶漬けなんぞという渋いのとか卵焼きとか手羽先とかで(本人曰く)ガマン。こっちは梅干しうどんだっちゅう~の。もうこの辺りからこっちも疲労感が半端ない。その後深夜11時過ぎまでそこに滞在してまだ夜更かししたいという孫べえを連れ帰る。途中コンビニでゼリーが欲しいという娘にそれを買い、翌朝の孫べえのご飯を買い、まあコンビニ様々だ。と思ったら、「ねえねえ。一回だけ、良いでしょ!?」とひつっこく寄ってくるからめんどくさくなって、「もう~良いわよ。」とくじ引きを許可。案の定外れだのに。けっ!なんて甘々。マンションに送り届けて速攻帰宅。倒れ込むようにベッドイン。

今朝は意外とすんなり起きられたのは温泉のお陰か。はたまた本当に来るのは明日なのか?

 

今日は午後からのオペラのガラコンサートに行ってきた。これまでの自粛生活に飽き飽きした人達が沢山集まっていた。きっとこれからはこういいう風景が度々見られるようになるんだろうと思う。こうでなくっちゃ。感染の事ばかり考えて、文化果つる国になっても仕方が無い。

このコンサートはサプライズで締められた。この日の音楽監督でもありテノール歌手でもあるT氏が本日のゲスト歌手I女史と結婚されたという発表があった。おそらくT氏は還暦過ぎて数年?奥様になられる方もそれ程お年が離れて居るようには見えない。舞台も客席も一気にお祝いモードとなりいきなり結婚行進曲の合唱まで。途中で肩を抱き寄せる仕草も板に付いたT氏と、幾らかの恥じらいを見せる奥様の初々しさは客席全員の大きな拍手の中で自然すぎるほど自然だった。良いじゃない?熟年結婚。ワンダフル。お幸せに~。

今日の案内をくれたM嬢は珍しい声域でアルト。かねてから彼女の成長ぶりを楽しみにしてきたが、今日も素晴らしい声でずっと聴いていたいと思わせるほどだった。

みんなそれぞれの道で、色んな花を咲かせているなあ。

 

2022年10月 8日 (土)

おお疲れた!

本日は明日明後日のお嬢のコンサートの完全なる裏方として、舞台の設営やら客席の配置やらと、全体のプランを手伝った。お嬢はこちらが身障者だということはどっかに飛んでいて、ハイお母さん何座ってんの?あれは?これは?とうるさいことうるさいこと。でもって、夜8時からの会場入りだったが、終わったのが11時近く。こんな筈じゃあなかった。色々手違いもありいので、こんな羽目になったのだが、お陰でまあ明日は順調にいくはずだ。

一つの舞台を作るのは小さなコンサートでも大変。道具類の配置やら、そもそも背景から此方のイメージ通りに変更して貰ったり、何から何まで、細かくチェックして、ようやく何とか完成した。会場にあるものを最大限使いたいため、こちらの注文にマスターご夫妻は大わらわ。気の毒なことをした。が、結果お客様に喜んでいただけたら全てはチャラにしていただけるだろう。そしてこれで終ではない。明日も午後一で出かけて照明と音響のチェックだ。長い一日になりそうだ。

お嬢が演劇畑の人間だから、どうしてもこだわりがある。こっちはできる限りその意志に沿うようにしている。何をどうやりたいのか。大体は把握したが、これが本番でどう花開くか?思い通りに行くだろうか?こうなったら、楽しみと同時に早く終わって欲しいという矛盾した感情も湧く。

昨日もしみじみと言ったもんだ。「歌うのがアンタでホントに楽。自分の公演だったらこうはいかないもんねえ。」返事は、「それは分かるけど、お母さんだって、まだやれるよ。やれば良いじゃん。声だってあるし。」、、、いやあ、どうだかねえ。そもそもエネルギーがあるような気がしない。世の中には90代でリサイタルする人も居るけどねえ。

 

雨が上がって良かった。

2022年10月 6日 (木)

なんたる免許更新の日。

昨夜、娘の免許更新に付き合うと約束していたので、今か今かと電話を待っていた。が、きっちり決めて無かったとは言え、これ以上遅くなると受付時間にまにあわないじゃないのという時間になった。で、恐る恐るラインしてみる。それというのも、彼女は更年期障害が酷くて睡眠障害のようになっている。変な時間まで爆睡したりがあるから、やたらこっちの都合で電話でもかけようもんなら機嫌が悪いことこの上ない。なので、あちらからの連絡を待つのがいつもの習慣だ。

しかし、今日は連絡して良かった。案の定、子供を送り出して二度寝していて起きられなかったらしい。慌ててやって来た娘の運転で行ったが、先日のちぇちの公演の手伝いで違反があったため、二時間の講習を受けなくてはならない。その間、ぼ~っと待つのはイヤなので、こっちはお目当てのカフェでランチ兼読書と決めていた。ところが、そのカフェは不定期なお休みで仕方なくマップで調べて初めてのカフェを探して行ってみた。

このカフェは高台にあり、予め写真とかで雰囲気は知って出かけたが、予想通りの落ち着いた店内。読書して待つには丁度良い感じ。実際いくつかの棚には沢山の本が並んでいた。縦長の窓からは樹木の向こうに海が見え、改めて讃岐の自然豊かなことに感動する。入った時間が完全にお昼を過ぎていたので客は自分一人だった。3時までのランチタイムというのも珍しいのではないか?と思いつつ、リゾットを注文。珈琲とデザートも一緒に頼み、長居するつもり。

持ち込んだ本は、「ジヴェルニーの食卓」という短編小説。こういう場所で読むのに相応しい作品だった。印象派の画家達の、大きな時代の潮流に時に抗い、闘い、画壇にその地位を確立していく様が描かれていて面白い。窓から見える風景が、マチスの絵のように見えたり、コーヒーカップと窓枠が、ピカソのそれのように感じたりしながら楽しんだ。

そして、海鮮リゾットも冷製スープもなかなか美味しい。初めてのお店でよく分からずに注文したら、「デザート盛り合わせ」が凄かった!ゆうに3人分あったような気がする。ティラミスの上にアイスクリームが乗っていて、チョコレートケーキがその回りに二きれもあった。薄くは切ってあったが梨やブドウなどのフルーツも沢山盛り付けられていて、見た段階でこれは無理かも、と内心思ったが、本を読みながらゆっくり食べるといつの間にか完食。だ~~~。

丁度良い時間になって、そこから20分ほどの免許センターにとって返す。乗り込んで来た娘の第一声。「全く運転したく無くなった!お母さんして。」元々あまり運転が好きでないのもあるが、相当怖い事故の映像を沢山見せられたらしい。ハイハイ、とそのままこっちが運転して新しく開通した道を走っていると、なんということ。もの凄い事故現場に出くわす。一台は完全にお腹を見せてひっくり返っていて、もう一台は運転席がぐちゃぐちゃ。二台ともエアバッグがぷらぷらしている。パトカーやおまわりさんに救急車と物々しい光景が眼前に広がり、恐る恐る通り過ぎる。娘は、「あれはビデオだからと思おうとしてたのに、なんで、こんな現実を突きつけるの!」と助手席でわめいている。直線道路で、見晴らしも良いのに、何故?という事故。いやはや気をつけようねえ、助かると良いねえ、と言いながら走っていると後ろから救急車が追い越していく。あれはニュースになるだろうなあ、と話しながら帰ったことだ。

いやはやいやはや、くわばらくわばら。

2022年10月 5日 (水)

何かにつけて、ちぇちの活動を考える。

ロシアロシアと言ってたら、今度は北が日本の上空を勝手に飛んでミサイルを撃ち込んだ。昨日は昨日でインドネシアのサッカー場での乱闘エスカレートでの死者が百人越え。現代は、様々な危機が渦巻いている時代。日本だっていつ何がどうなるか分かったもんじゃない。この小さな国の小さな街で、その日その日を恙なく暮らせていると、信じて疑わないのは、自分は絶対死なないかのように暮らしているのと似ている。そして突然とんでもないことが起きて、間違いに気付くのだろうか。

ずっとテレビがつきっぱなしで、声だけ聴きながら色々やっているが、ホント見る気にならない。バラエティではゲラゲラゲラ。出ている人は全員大笑いの狂想曲。人よりもしっかり笑おうと競っているかのよう。いや、笑いは大事。薬よりも良いことは確かだ。にしても、ちかごろの番組は度が過ぎてない?時間帯によってはどこもかしこも同じように出演者が爆笑してる。

落語は弁士が笑ってはいけないというルールがあって、それこそが芸だろう。ま、それは望むべくもないことだろうが、何とかして欲しいと、我が周辺の人達は多くの人がそういう感想を持っている。若者は別の意味でテレビ離れが進んでいるようで、我々高齢者が離れたら、困るんじゃないの?と思うけどねえ。

ようやく一人になってテレビを切る。わが家は夫の職業病で、帰宅してから就寝までワンワンかけてないと気が済まないから、こうしてお休み遊ばしたあとの静けさがなんとも言えない至福の時間。が、テレビ好きは何も夫だけではなく、わが友人に二人ほど同じような人が居る。見てようが見て無かろうが、兎に角まずテレビをつける。内一人Mはお先に失礼とあの世に早々と逝ってしまったが、彼女とNYのホテルに泊まった時も、部屋に入るやいなやすぐスイッチオン。「あんた、英語分かるの?」「うんにゃ。でも聴いていたい。」「はあ?よう分かりませんわ~。」とかなんとか、会話したのを覚えている。国内旅行もよく一緒に行ったが、どこに行っても全く同じ。熱心に見てる訳でもなさそうだが、必ず部屋に入るとテレビ。。。。もう一人は人生の先輩だが、このお方も全く同じ。「私にとってはテレビはお友達よ。」だそうだ。ま、良いけど。そういう人も居ないとねえ。

午後は娘とピアニストとの三人の最後の練習だった。流石、先日此方が勝手な注文をしたのを料理して、180度違った感じの演奏をしてくれて大満足。これを聴いたお客様の声が聞きたいなあ。これはとある男性が、「僕、これがシャンソンの中で一番好きなんです。」と言ってた曲だ。ドラマチックで、激しい。

あとは本番、二人の呼吸で作り出すものだ。二人とも本番が近づいてわくわくしてきたようだ。今回が満足できる仕上がりになったら、毎年やりたいと、今から話し合っている。ゆくゆくは全国色んな所に演奏旅行したいとか。。。良いなあ。若いって事は。それに、こちらとしても是非そうやってシャンソンの良さを広めて欲しいという思いもある。

練習後にみんなで、雑談している中で、オペラは嫌いじゃないけど敷居が高いのに、シャンソンには惹かれるのは何故かしら?という話になった。ピアニストはここまで本格的にシャンソンを弾いたことはなかった人で、これまではクラシック畑の中にいた人だ。3人とも音楽好きではあり、オペラのガラコンサートなんかにはよく行く方だが、例えば、シャンソンは20曲聴いてもそこまで疲れないが、オペラのアリアだったら、どうだろう?的な話になった。勿論一曲の長さも違うし、そもそもオペラの声の出し方が限界まで使うというやり方だから、聴く方は疲れるというのはある。第一内容が分からないというのも大きな要素だろう。人は分からないものは敬遠する傾向がある。ひとたびのめり込んだらどこまでも追求したくなるのはオペラの鑑賞も同じではあるんだけど。。。やっぱり、出会いだろうなあ。

これまで、この溝を埋めるべく長い間ちぇちは頑張ってきたが、、、。

2022年10月 3日 (月)

栗林公園に風吹き渡る。

朝仕事をしてから迎えに来た友人Kと共にとある会合へと出かける。栗林公園でお弁当付きのこの集まりは、目の前に顔が分からない高校時代の同窓生がいる。が、そこは同校のよしみですぐに打ち解けてお弁当をつつきながらのお喋り。そのうち前の男性が非常にITに詳しいと分かる。そこで早速今現在iPhoneでの困りごとを相談すると、即答で教えてくれる。わお。素晴らしい。本日の収穫と相成る。

帰宅してからも、教えて貰ったことを色々やっていたが、最終的に不明な部分はスマホそのもののサポートセンターとチャットで話して解決した。これはかなり深い内容だったが、丁寧な指導で解決した。素晴らしいなあ。購入時に以前は貰っていた分厚い取説が一切出なくなって、こうしてサポートセンターで訊けということらしい。ま、その方が効率も良いし、良いことだ。

 

しかし、集まりで出た同窓会をどうするか?はどうするかなあ?どこかで最後の同窓会をやろうとは言っているが、色々相談しなくては。今ならなんとか出来そうな予感がしているが、遅れるとみんなのエネルギーがどんどんなくなる様な気がする。

はてさて。どいうなることやら。

読書の秋。そして死。

今日は思いがけず時間が出来て、「死という最後の未来」というタイトルの本を一気読みした。石原さんはこのインタビューから2年後には他界しているから、おのずと読み手も感慨を深くする。特にあれほど一般人より濃い人生を送った人が、「死」を前にかなり狼狽しつつ、動揺もしていたようなのは、対談相手が飄々とした曾野綾子女史だったのでなおさら際立つ。女史は、「来るなら来い」的な、達観したところがあり、それはどうも幼少期からキリスト教に触れてきたせいもありそうな。でも、同じ信者が皆さんこのようなサバサバした人生観を持っているとは考えにくいから、作家ならではの物事を客観的に見るという特質からも来ているのだろうと思う。

思ったより面白かった。それに自分の為にも大いに勉強になった。女史は言う。「私は中年以降にしか、人生は熟さないと思っています。、、、十分に孤独を知ってこそ、人生は完熟していく。」確かにそうだと常々思っていたし、その意味で老いることは怖くなかった。

高校生から成人になっていく過程で、世の中の事などが、一枚一枚ベールが剥がれるように分かってきたという時期があったように、今は、暗い沼に清らかな雨が降り注ぎ、少しずつ沼の底が見えてきたような気がしている。その沼の一番深いところが自分の終着駅だろう。そこに到達するときに、出来ればある程度は意識があって欲しいと思うなあ。

我が母が亡くなる前日、あまり喋ることも出来なくなっていたが、お世話になった保健婦さんとか担当の職員の方に、一人一人手を取ってお礼を言っていたのを思い出す。自分の死をハッキリと自覚していたあの時の姿は素晴らしいと思う。あんな風に死にたいと時折思い出す。

 

今日は、ある小学時代の同窓生の奥さんから、彼が最近亡くなったと知らされた。OL時代に職場に尋ねてきてくれた彼ら男3人と一枚の写真に収まったことがあり、今も大事に持っている。これで内二人が亡くなった事になる。もう一人は消息も知らない。実はちぇちの練習で、ある場所を借りたことがあり、その時そこのトップだった彼には大いにお世話になった。明るくて、人の良さそうな笑顔が今もありありと思い出される。、、、そうか。彼も逝ってしまったか。数年前には、彼を加えて遠方からやって来た同窓生の女性共々楽しく飲んで食べた事がある。コロナ前だった。帰る方向が同じで一緒に歩きながら「また、こうして会おうね。」と分かれてからそういう機会が持てないままだった。、、、受け入れるしかない。

合掌。

2022年10月 1日 (土)

秋色の空。

ニュースを見ながら食事というのがわが家の習慣だが、近頃はロシアのものが多くて、むしゃくしゃしてクシャクシャとよく食べて困る。ロシア人と一括りにしてしまうのは勿論良くない。プーの顔が全ロシア人の顔ではない。先日読んだ本もロシア正教を取り上げていて、人格者も沢山出てきたし、偏見を持つべきではないとは確かに思っている。そして、近頃では強制的に戦地に送られる一般の若者たち(中にはそれほど若くない人も居るようだが)には心から同情している。

プーのあの小さな目は、地球を見渡せる視野を持ち合わせていないのか?自分の周辺だけを見ているような気がしている。一時期は著しく体調が悪く余命が少ないからあんな事やらかしてるとかいう風評が流れたが、あれは単なる希望的観測からくるデマだったようだ。元気じゃん!?

今日は今日で、側近の中に急進的な思想家がいて、それらの連中に押されている現状かも知れない、とする意見が流れた。本当だろうか?そうだとしたら?この戦争は終わらないんじゃない?おーいやだいやだ。

こういうときこそ、神の鉄槌が天から降ってこないかと思ってしまう。大事な国宝とされていた坂出の寺院が雷で炎上したというのは、神さまも手元が狂ったんじゃない?あっちでしょ!!、、、おっと神の存在を信じてない者がなんたることを。

 

テレビの小さな画面には毎日色んな「死」が報道される。今年はとにかく次々と著名な人が亡くなっている。そして、小さな子供の行方不明や、やむにやまれぬ尊属殺人などから始まって、あらゆる愕然とする事故まで。毎日「死」が報道されない日がない。それでも日本では一つの死が大切に伝えられ、受け取る側も一つ一つ哀しみを持って受け止めている。ところが戦地では、十把一絡げ。昨日だったかも、女性ばかりの大量遺体を埋めたのが発見されたとか流れて慄然とした。戦争だから仕方がないと言えるのか?

友人から回ってきた本の中に、「死という最後の未来」という、石原慎太郎と曾野綾子両氏の対談もののタイトルが並んで知る。石原氏が亡くなった事を思えば、一読のタイミングかも知れない。

みんな「死」は他人事ではないんだ。当たり前だけど。

 

出るはずだった歌会に出ず、一日溜めていた書類の整理に追われた。この歌会のドジは他にもいたらしくちょっぴりホッとしたりして。。。夕方買い物ついでに娘をひらって車中打ち合わせもやる。母親のドジが遺伝して、運転免許の更新手続きに1週間以内に行かなくてはならないとか言う。もう、なにやってるんだか。随分時間があっただろうに。

帰路についた途端娘が空を指さして、「見て見て!キレイ!」というので思わず車を止めて暫く眺める。確かに夕焼けの空が秋の色に染まり、なんともいえない美しさだ。そして娘が述懐する。子育ての時代、散歩しながら子供に必ず空を見せて、凄いテンションで、「ほら見て見て~!空がキレイよ~!」と指さしていたら、かなり大きくなっても、空を見たらそう言うものだと思っていたらしい子供が、「空がキレイ」という部分だけ、異様な高音のテンションで発声して、その前後は普通の口調だったのを思い出し笑いしている。空をみたらそう言わなくてはならないと思ってたらしい。「可愛いかった~」と言う娘の声でこちらもほっこり。

平和って良いなあ。

 

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