音楽と読書。良いなあ。
今日は現場での打ち合わせ兼小さなリハーサル。照明など細かいところが決まり、ようやく全体像が結べた感じ。2時間はあっという間に終り、小道具類を撤去してわが家に保管をかねて又ゾロ三人でビデオを見ながらディスカッション。ピアノの事が十分分かってない人間が、イメージだけでああだこうだと注文を付けるのに文句も言わずイチイチ深く考えてくれるYさんはなかなか人間が出来ている人だ。クラシックがメインでやって来た人は、技量は確かなものがあるが、「共に歌わなくてはならない」というシャンソン独特のものは理解に苦しむところがあるようだ。大方は面白がってくれてはいるが、想像力が求められるとムムムと唸っている。
今回、シャンソン20区というグループ名を名乗り、互いに切磋琢磨して一曲ずつ創り上げて行くためには、相互の理解と協力が必要だ。日本では二人の場合、ピアニストは伴奏者としてそれこそ伴奏していれば良いという扱いだが、亡きI先生はよくそれを嫌がっていた。歌い手とピアニストがともに創り上げるのが音楽だと。それはおそらくクラシックの世界でも同じ事が言えるんだが、ことシャンソンに至ってはそれが大変重要になってくる。歌い手を持ち上げるも進めるも、時には音で平手打ち、なんてこともあっても良いくらいのもんだ。ただ、こういうことには向き不向きもあるように思ってはいる。それが、シャンソンのピアニストが非常に少ないと言われる所以だ。その点、Yさんと娘はは結構長く付き合っていて年齢もほぼ同じで、互いに言いたいことを言い合えているのが良い。そして何より、Yさんは好奇心が旺盛だ。知らない世界にどっぷり浸かろうとしている。
本番がどういうものになるか、今日の練習でこれまで以上に楽しみになってきた。最後まで頑張ろう!と声を掛け合って爽やかに解散したものだ。
不思議な事に、今日はあまり疲れなかった。夕べ炭酸風呂に入って寝たせいか、よ~く眠れて、ブランチで済ませて体が軽かったせいもあるかな。
読みかけの本はあと数十ページになってきた。ここまではなるほど自分も主人公の心情がよく理解出来たし、「信仰」というものの前で揺れ動く心は確かにそうだったろうと思う。ただ、これから先の展開を考えると、おそらくはやっぱり「改心」して、ロシア正教の前に跪く事になるんだろうなあと予想が付く。まあ、これが実在の人物を描いている限り史実に忠実に描かれているんだろう。でも、自分としては少し物足りないというか、芸術への希求の心が信仰より劣るかのような展開はなんとなく抵抗を感じつつ読んでいる。この山下りんという女性。時代が今だったら同じようになっただろうか?
確かにキリスト教は沢山の宝物を生み出したとは思っている。音楽しかり、宗教画に始まる絵画といい、教会堂の建築といい、文学にもそれこそ多大な影響を与え、その遺産は多くの人間の営みを潤してきている。その影響力は全人類に及び、信じようが信じまいが知らずに恩恵を被って生きているのは間違いない。でも、あまのじゃくな私は、その歴史的罪のようなものも同じくらいあったのではないか?と思ってしまう。ごく最近では多くの教会内部のセクハラがようやく表に出始めているが、どうも色々怪しいことが長年起きてきたような、、、。あらゆる宗教に言えることかも知れないが、功罪併せ持つのが宗教ではないのか?と思ってしまう。ただ今話題の統一なにがしも、起こるべくして起きた、人間の弱さが生んだものではないのか?、、、そして、ついにはあんな事件が起きてしまった。
げに恐ろしきは信じ切ること、かな。
« 秋たけなわ。 | トップページ | 悪魔として。。? »