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2022年9月

2022年9月30日 (金)

悪魔として。。?

ぼ~っと生きてるんじゃないわよ!と短歌の師匠から言われそうだ。決してそういうことは言わない人だが。歌会の日程を間違えてしまい、締め切りを過ぎて思い出したというお粗末。いやはや、日にちの観念がなくなってくるのはヤバイかも。従って明日の予定が変わり、さあ、どうしよう。やることはいっぱいあるが、、、。

「百光」をようやく読み終えた。今日読んだ中に、「信仰を持たない人間は地獄から来た悪魔だ。」という一説があり、おおお~~と思ってしまった。悪魔ねえ。しかし、登場人物の中に酷い聖職者もいたんだけど、その人はどうなの?と思ったわよ。

まかて氏の取材力は流石に凄いと思ったし、今は亡き人を思い描きながら、あたかも目の前に見ているかのような事象を繰り広げる技術は卓越していると思った。しかし、やっぱりよく分からないというのが本音だ。中には魅力的な聖職者も出ては来るが、、、、。どうやら私は残る人生を悪魔として生きるほかないようだ。げげっ!

 

夕方になって突然孫べえがのっそり現れた。何でも父親が指定の場所に部屋のキーを入れ損なっていたらしい。まあ歩いてもそれほど遠く無い距離だから自転車だとすぐだ。で、夕飯を久しぶりに一緒に食べようとなり、母親が帰る7時までは待てず先に始めた。矢張りおなかが空く年齢なんだろう。出す物出す物全て平らげる。とにかく見る度に背が伸びて、とても小六とは思えない。たまに、こうしてわいわい食べるのは本当に良い。夫もつられていつもより沢山食べている。昔ならこういう風景は普通だったんだろうに。やがて疲れて帰宅した娘も一回分の食事が助かったと喜んで食べて帰る。ま、コンサート前だ。仕事と家庭とは今負担だろう。経験上自分も分かる。

後片付けも良いよと二人を送り出して、、、なんて優しい悪魔なの?と思ってしまう。フフフ。

2022年9月29日 (木)

音楽と読書。良いなあ。

今日は現場での打ち合わせ兼小さなリハーサル。照明など細かいところが決まり、ようやく全体像が結べた感じ。2時間はあっという間に終り、小道具類を撤去してわが家に保管をかねて又ゾロ三人でビデオを見ながらディスカッション。ピアノの事が十分分かってない人間が、イメージだけでああだこうだと注文を付けるのに文句も言わずイチイチ深く考えてくれるYさんはなかなか人間が出来ている人だ。クラシックがメインでやって来た人は、技量は確かなものがあるが、「共に歌わなくてはならない」というシャンソン独特のものは理解に苦しむところがあるようだ。大方は面白がってくれてはいるが、想像力が求められるとムムムと唸っている。

今回、シャンソン20区というグループ名を名乗り、互いに切磋琢磨して一曲ずつ創り上げて行くためには、相互の理解と協力が必要だ。日本では二人の場合、ピアニストは伴奏者としてそれこそ伴奏していれば良いという扱いだが、亡きI先生はよくそれを嫌がっていた。歌い手とピアニストがともに創り上げるのが音楽だと。それはおそらくクラシックの世界でも同じ事が言えるんだが、ことシャンソンに至ってはそれが大変重要になってくる。歌い手を持ち上げるも進めるも、時には音で平手打ち、なんてこともあっても良いくらいのもんだ。ただ、こういうことには向き不向きもあるように思ってはいる。それが、シャンソンのピアニストが非常に少ないと言われる所以だ。その点、Yさんと娘はは結構長く付き合っていて年齢もほぼ同じで、互いに言いたいことを言い合えているのが良い。そして何より、Yさんは好奇心が旺盛だ。知らない世界にどっぷり浸かろうとしている。

本番がどういうものになるか、今日の練習でこれまで以上に楽しみになってきた。最後まで頑張ろう!と声を掛け合って爽やかに解散したものだ。

 

不思議な事に、今日はあまり疲れなかった。夕べ炭酸風呂に入って寝たせいか、よ~く眠れて、ブランチで済ませて体が軽かったせいもあるかな。

読みかけの本はあと数十ページになってきた。ここまではなるほど自分も主人公の心情がよく理解出来たし、「信仰」というものの前で揺れ動く心は確かにそうだったろうと思う。ただ、これから先の展開を考えると、おそらくはやっぱり「改心」して、ロシア正教の前に跪く事になるんだろうなあと予想が付く。まあ、これが実在の人物を描いている限り史実に忠実に描かれているんだろう。でも、自分としては少し物足りないというか、芸術への希求の心が信仰より劣るかのような展開はなんとなく抵抗を感じつつ読んでいる。この山下りんという女性。時代が今だったら同じようになっただろうか?

確かにキリスト教は沢山の宝物を生み出したとは思っている。音楽しかり、宗教画に始まる絵画といい、教会堂の建築といい、文学にもそれこそ多大な影響を与え、その遺産は多くの人間の営みを潤してきている。その影響力は全人類に及び、信じようが信じまいが知らずに恩恵を被って生きているのは間違いない。でも、あまのじゃくな私は、その歴史的罪のようなものも同じくらいあったのではないか?と思ってしまう。ごく最近では多くの教会内部のセクハラがようやく表に出始めているが、どうも色々怪しいことが長年起きてきたような、、、。あらゆる宗教に言えることかも知れないが、功罪併せ持つのが宗教ではないのか?と思ってしまう。ただ今話題の統一なにがしも、起こるべくして起きた、人間の弱さが生んだものではないのか?、、、そして、ついにはあんな事件が起きてしまった。

げに恐ろしきは信じ切ること、かな。

2022年9月27日 (火)

秋たけなわ。

読む力が段々弱くなってきて、夜を徹して読むというのが出来なくなった。読書の秋とて、友人から回って来た、たかだか500ページの本が遅々として進まない。夕べも読みながら睡魔に勝てず閉じてしまい、さっき昨日読んだところを再度なぞって、読み始めの興奮を思い出してから続きを読んでいる。まかて女史のは、導入がちょいと難しめで、「これに耐えられる人だけ私の世界にいらっしゃい」的な、、、。勿論諦めたりはしない主義だけど、それに、以前と違って先を急がなくなってきてはいるから、時間をかけて読もうとは思っている。この人のは確かに人気がでる理由がある。歯切れの良いセリフと物語の展開の早さが現代的。言葉使いも昔風だが、分からないほどではない。

昼間は娘のシャンソンの練習に付き合った。明日本番と言われても良い位にピアノも歌も仕上がってはいるが、そこは芸術の全てに言えるように、「終がない」。しかし触れれば触れるほどシャンソンは面白い。今も実はピアフの歌を聴きながらキーボードを打っている。ただ、娘の声自体は声楽に向いていると内心思っている。ま、本人が選択したことだし、実はシャンソンの中にも西欧の土壌から生まれた声の使い方がある。根元は同じということだろう。このピアフ女史も小型爆弾が破裂する様に歌っている。

以前娘とパリのシャンソニエに行き、リクエストしてすぐ側でで数人の歌手に歌って貰ったことがあったが、どの人も張りのある声で、力強い声だった。日本でのイメージのように囁くような声というのはその時は聴かなかった。

ある声楽家から、今回娘さんのアナウンスの声があまりに美しかったので、是非シャンソンを聴いてみたいと思います。というお便りを頂き来ていただくことになったが、有り難い事だ。結局は声だ。どこまでも声を磨く事から全ては始まる。さて、どういう評価を頂けるか?

 

街路樹がキレイにまだらに染まってきた。秋だなあ~。

 

2022年9月26日 (月)

ある人の死。

ある人の兄上が癌と闘って、余命宣告よりは長く生き延びたとは言え、勝つ事は無く天に召された。一時期からこの方の文章に触れることがあり、流石の元大手新聞社記者の説得力のある内容に感じるモノがあった。お元気な頃もう少しお話が聞きたかったと今思っている。が、書き残されたネット上の文章からも、学ぶことが多い。何より、このような思考が出来る人が思いを残してこの世を去らなければならなかった無念を思うとき、自分も襟を正して生きねば、と思う。

キリスト教信者の家に生まれ育ったが、とある学者との出会いで無神論者になった部分など、とても共感できたものだ。

いわゆる記者魂と言える正義感に満ち満ちた文章は、それを読む人の心を揺さぶらずには置かないだろう。死の間際まで、自らの「生」の使命感を果たすかのように発信し続けた生きざまに感動した。このように生き切ることは誰にでも可能なことではない。

願わくば、この方の思いが少しでも世の中に伝わり、一人でも多くの人が世の中の不条理に対して思いを馳せることがあれば良いなあ、と思う。明日の「国葬」に関してもその意味を問う厳しい眼差しがあった。

自分自身は、今回の「国葬」に関しては、例えば東京都の区民が弔意を表すかどうかで半分に割れているようなものが、勿論国民をも分断している現実がありながら、それでも行われてしまう、ということに不安を覚えている。仮に「戦争」が このような流れになっても、誰も止められないという構図ではないのか?今のロシアがそれだ。国が余所で戦争していても、それは自分の事ではなかったが、急に我が身に降りかかった時、若者や多くの人達が反対を叫んでも、検挙され罰されるだけ。その声は一切何も動かせられない。日本がそうならないよう、早くから心構えが要るだろう。

 

 

 

2022年9月25日 (日)

秋分暁を覚えず、、、私の場合。

今日はちぇちの落後ペラでいつも重要な役割を果たしてくれていた桂こけ枝師匠の独演会に友人Kと行ってきた。元々落語は好きだし、日本の話芸は残すべき芸術だと思っている。そして、このご時世こそ、笑いが必要との思いだった。結果、このところ日常生活を鬱々と暮らしていたKさんは、「気分転換になってホント楽しかった。」と喜んでくれた。そして、こけ枝さんを落後ペラの一回目から知っていて、その成長ぶりに大きな拍手を送っていた。確かに、あの頃のこけ枝さんとは全く違う。今日なんか、笑いだけでなく、人情物で、涙を誘う場面もあり、なかなか良かった。

最初にゲストの新人落語家が登場して、お定まり通りの手順でよどみなく話したが、どうも何かが違う。物語の中に入っていけない。笑いどころの筈が誰も笑えず、失笑するばかり。当然拍手も弱いものになるし、幾分「頑張れ」的な要素のある拍手でもあった。あの人が一人前の落語家になるにはまだ時間が掛かりそうだ。

中入りで運動パフォーマンスをやる若者が二人出て、新体操的なものにトークを加え客を沸かせた。その若さと身体能力にやんやの喝采。確かに羨ましい動きだった。あの若さには、羨望の拍手も混じったような、、、。それ私。

 

Kさんを送って6時過ぎに帰宅すると玄関でプール帰りの夫とバッタリ。となると晩ご飯が急ぐ。沢山食べない人に作るのも気が乗らないが、目まぐるしく頭を働かせて冷蔵庫の中身と相談。30分後にはテーブルに着いていた。が、どういうわけか、もの凄く疲れている。笑うのも疲れるということか?で、片付けもせずリクライニングの椅子に直行。いつの間にか爆睡していた。夕べ3時まで眠れなかったせいもあるだろうが、この気持ちの良い季候のせいもあるに違いない。

せっかくの夢が夫の声で破られる。新しい洗濯機の使い方を教えてくれという。どうやら毛布を乾燥までやりたいらしい。そんなの見たら分かると思うが、仕方なく寝ぼけ眼で対応する。それで起きてしまうかと思ったが、又ゾロ眠ったようだ。流石に9時過ぎには目覚めて、キッチンで出くわした夫が、「お母さんも早く寝ようね~」と言うので、「私は今起きたんですけど。」と返事して大笑い。これから食事の後片付けしてブータンタン。お風呂で何か映画でも見ようか?ともくろんでいる。寝てなんかいられるもんですか!と内心思いつつ、、、、。

2022年9月24日 (土)

チカレタび~。

ピアニストと三人で通し稽古の三時間は全く疲れた。老体には堪えるなあ。好い加減に聴いているのではないから、集中している分ホントに消耗する。

ピアノはまだしも、歌というのは本人には全くというほど自分の声の事が分かってない。語弊があるかもしれないが感覚で歌っているところがある。自分の声は人にはこう聞こえているのではないか?と思いつつ歌っているわけだ。長く訓練してきて、その差がほぼ無くなってきているとしても、やはり100パーセントではない。だから必ず第三者の聴く耳が要る。、、というわけで、本日予定している全曲を丁寧に聴かせて貰った。まるで自分が歌っているように疲れた、というのが正直な所。若い二人はこっちほどではないが、それでもきっと疲れただろうと思う。

来週は現場で打ち合わせを兼ねた練習の予定だ。ナントいっても現場が大事だ。思いがけない人から行きます連絡を受けて、そういう方々との対面も楽しみになってきた。

いつも公演と名が付くものをやる前に思うことだが、何もしないでも時は同じように過ぎる。が、何の因果かこうして自分を苦しい立場に追い込まずには要られない性というものを持っている。これが間違いなく娘に遺伝している。

どう生きても一生だ。

 

何だかねえ。

これを充実と言えるのかどうか?朝から忙しかった。

先週に続いてプールだったが、何故か今日はいつもより体に来た。妙に疲れてアチコチ痛い。寒いかもと思って、水着の上にプール用の上着まで着込んだのがよろしく無かったのかも知れない。

で、なにもする気が起きず、夫に言われるがママ近くの食堂へ連れ立って行く。このお店はいつも結構一杯なのに、今日は休日でファミリーの出足が遅いのかガラガラ。で、あれこれ取って二人で1700円のランチ。最近食が細すぎる夫にしっかり食べて貰うのが目的の外食で、にしてはやっぱり少ないなあ。何故か食欲が湧かないらしい。年を取るとこうなるという話はよく聞くが、現実になるとやっぱり心配。まじでどっか悪いんじゃないの?と思ってしまう。が、薬と病院大好き人間の夫に今更何かを勧めることも出来ない。やれやれ。

で、帰宅してからようやくJASRACの書類に取り組む。なんで、英語やイタリア語じゃないの?とぼやきたくなるフランス語をイチイチ細い欄に記入していく。悪あがきでネットでなんとか出来ないかと調べてみたが、やっぱり紙媒体でないとダメらしい。なんとかかんとか仕上げて、あとは明日の練習時に完成させるつもり。業界の大物先生から、著作権だけはちゃんとしろ、と言われているとかで、、、。ま、それはそうだけどねえ。もっと簡単にしてくれると有り難いんだけど。。。

 

家事やなんかをちょこちょこっとして、大したこともやってないのに、あっと言うまに夕飯時。今日は夕べの酢豚の残りと、食べなきゃイケナイ賞味期限が近い納豆や、卵や、冷凍野菜などで、ちゃちゃっとやっつける。ご飯だけはタイマーで6時半に仕上がる仕組み。少ししか食べないでも、夫も日本男子。白いご飯はどうしても欲しいらしい。さっきお風呂から出て、食洗機に食器を入れたが、やっぱり夫は何もかも少しずつ残している。「この一口が食べられないんだ」と言うが、信じられない。、、、、何だかねえ~。

 

 

 

2022年9月23日 (金)

ちむどんどん。

いつものお薬を処方してもらいにいつもの病院に行く。6月に行き、同じ薬を貰って又三ヶ月後に同じ物を貰うというやり方は、病院嫌いの私にはとても理にかなっていると思っていて、この先生大好き。その3ヶ月間に何か異常があれば勿論相談に行くとして、何もないのに、しょっちゅう行く必要を感じない。で、三ヶ月前にとった血液検査の結果を示してくれて、全て異常が無かったと言われ、おかしな話かも知れないがそれだけで元気になる。そして、4回目のワクチンの話をすると、4月に罹患してるので、強烈なワクチンを打ったのと同じ効果があるから、別に急がないでしょうと言われる。なので、ずっと先で新しいワクチンを打とうかと思っている。そうこうしているうちに既に発売になっているらしい薬も出て、ナントカやり過ごせるのだろうか。自分のなかではコロナ禍は収束に近づいている。

娘のコンサートは予定枚数ほぼ完売となり、ここから先は、充実した内容にするためにピアニストも交えて三人でちむどんどん?

どんな曲も同じだけど、ことシャンソンに関しては、より深く掘り下げる必要がある。聴く人に伝える内容を伝道者としてしっかり構築する必要がある。一曲入魂、という感じか。従って、ピアニストも疲れるだろう。譜面通り弾いていれば良いというものではない。上手く乗ってお互いに感動を分かち合って演奏出来れば最高だ。これから、その練習に付き合って本番までに仕上げたい。

ま、こういうことに参加させてもらえることを喜びたいとも思う。これが、娘が東京にいた場合何も出来ないわけで、偶然にもこういう機会が与えられたことに運命的なものを感じる。

その代わりの様に、例えばJASRACのようなお仕事が全て此方に回ってくる。ま、ちぇちで培ったノウハウを武器にやろうとは思っている。フランス語をイチイチ細かく書きこむのが面倒で手が付けられないでいるが、、、、ぼちぼちやらなくては。

 

問題の股関節は今のところ大丈夫。明日は又プールに行き、歩き方の指導を受ける予定。夫はこれを機会に入会してちょくちょく通えとアドバイスしてくれる。ま、水中で歩くのは確かに気持ちが良い。これからの季節はチョイと寒さが気になるが、、、、。一応申込書は書いてみた。

取りあえず動けていることを喜ぼう。

2022年9月20日 (火)

まるでオオカミ少年に騙されているような、、、。

勿論、何事も無かったのは結構毛だらけなんだけど、、、、。あまりに度々だと、ニュースに真実味が無くなるというか、またか、と話半分に聞いてしまうではないの?これ以上無いくらいに脅して、究極の言葉まで使って煽っていたが、それをどれほどの人が信じていたのか?避難所とされたコミセンに避難していた人がニュースに流れたが、たった一組の家族。こういうやり方は、手遅れになった場合責められる気象庁の対策だろう。が、もう少しナントカならないのか?と思うのは私だけ?

それと、避難しろと連呼するときに、現状と合わせて、どうなるかも知れないからとか、具体的な根拠を一緒に言ってくれないとどうも信憑性に欠ける。今日の夕方のニュースの時間、気象予報士とアナウンサーのやりとりが面白かった。アナウンサーはどう見ても台風の規模は小さくなっているのを肌で感じていて、今後は大丈夫ではないのか?と疑っている。しかし、予報士はあくまで心配な要素があるから油断は禁物だ、と主張する。「なんせ、台風ですから。」と分かったような分からないような言葉まで飛び出す。が、その声が段々弱々しくなり震えてくる。流石にアナウンサーも気の毒になったのか?ナントカまとめて打ち切ったが、これ何?と聴きながら笑ってしまった。

何かがおかしい。

確かに日本では過去に一杯災害を経験してきているから、まずは怖いという気持ちになる。これって、まるでコロナと同じじゃないの?と思ったりする。結局何ごとも自分で判断するほか無いのかも知れない。勿論専門家の意見は意見として聞くとしても、様々な情報から状況判断するのは自分だということかも。

とはいえ、今回も九州はたいへんな被害を被った人達もいるし、これから東北方面に移動するらしいから、あちらの方面で被害が出ないとも限らない。どうしてもニュースには頼らざるを得ない。それも含めて、上手く情報と付き合っていく必要があるなあ。

ま、兎に角地元は終わったようで一安心。

今日コンサートを中止した人達は本当にお気の毒と言うほか無い。いつもの雨の日と大して変わらなかったというのにねえ。

人間は弱いなあ~。

2022年9月19日 (月)

経験したことのない台風。という表現に思う。

台風の風が段々強く荒れ狂い始めた。こんなこと言うとヒンシュクを買うかも知れないが、この風は嫌いではない。いや、もっとヒンシュクを買うだろうが、嵐の風雨も嫌いではない。きっと幼児期の体験がフラッシュバックするせいかもしれない。

幼少期、西の方の海岸沿いに住んでいたことがある。台風が来るとき友人宅に遊びに行っていて、台風がくるからと帰ろうとした。家路の途中に小さいけれど丸い石の橋があり、その川が海に続いているためザップ~ンと大きな波がすっぽりとその橋を覆い隠す。台風はそこまで来ていたのだった。しばらく眺めていて、遠回りして帰ろうかと一瞬迷ったが、波は大きくその橋を越えては又引き返す。それを繰り返す様子を見ていて、本来の気性が顔を出した。波が引いた時なら、こんな小さな橋だからあっちまで渡りきれるだろう、と思った。確か小学4年生くらいか。確かにおてんばではあった。辺りを見渡しても大人も子供も誰も居ない。当然みんな引きこもっていたんだろう。、、、何度か大きな波が完全にその橋を隠しては又顕わにするを繰り返すその様子を見ていて、タイミングを計って遂にエイヤッと走った。

あのときの快感が今も蘇る。

が、もし、今孫べえがそんな事をやろうとしたら全力で止めるだろうと思うが、昔のことだ。世の中がのんびりしていた。今の時代なら、予報で親は子供の外出を厳しく止めるだろうし、その友人宅も受け入れないし、例え遊びは許しても送っていくくらいのことはするだろう。が、70年近く前の話だ。スマホもないし、ニュースさえ速報で受け取る習慣は今ほどではない。

知らないが故の自由だった。あの頃の子供時代はこれ以外にも色々あって、自分の人生の中でも特筆すべきサバイバルに満ち満ちていたものだ。

今日のニュースでは「体験したことのない、、、」というあの嫌な言葉がテレビ画面に踊った。どれほどのものがやってくるのか?たまたま我が家にいた娘が、古い家だからと、「ぜったい屋根が飛ぶよ。水が出たら、どうやってうちまで来るの?」と脅し、テレビで近くの避難所がオープンしたと出たので「避難したら?」となおも言いつのった。にも関わらず、「泳いで行くわよ。」とか、「あんな所では絶対眠れないから。」とか抵抗する。夫も、「この辺はハザードマップでも大丈夫だし、わが家はそれよりも高い位置に立ててるし、二階もあるから。」と全く行く気は無い。ま、これが大方の讃岐の人間だろう。河の側に住んでいる友人さえ、いざとなったら高台の病院に行くから、、、と動く気は無い。

しかし、矢張り温暖化の影響だろうが、何もかも昔とは違ってきた。いつか、避難するようになるのかも知れない。とぼんやり考えても居る。

2022年9月16日 (金)

言いそこ間違いの話。

約一ヶ月ぶりにプールでの指導を受ける。一時グンと参加者が減っていたが、今日は最初に近いメンバーが集まっている。で、1時間近く色んな事をしながら歩いたが、面白い事があった。コロナ禍でマスクをしないということもあり、一同全く喋らず、透明なマスクを付けたインストラクターだけが立て板に水式に喋っている。それを聞いては黙々と従うというパターン。が、在るとき、小さなボールが一杯入ったかごを持ってきて、これを一個ずつ取るように言われる。その途端、誰からともなく笑いが起きる。「小さな子供じゃあるまいに!」だったか、「一体これで何をやらせようというのか?」的な笑いだったのか?兎に角それまでの雰囲気ががらりと変わった。急に和気藹々とした雰囲気になり、確かに言われた通り出来ないことも起きたりで、声に出して笑う人も出てくる。

これは不思議だった。

母が施設で、まるで幼稚園児のように色んな事をやらされる、とぼやいていたが、それは意味があることだったんだと体験して分かった。たった一つのテニスボール程度の物が現れただけで、その場の空気が一変したのは、そういうことだ。中にはお友達と連れだってきている人達もいるようだったが、殆どが個人参加。全く顔見知りでもない人達の集まりだ。この小道具は、ホントに良い働きをした。

これまでずっと松葉杖で参加してきたが、今日は思い切って自力で入室。痛みはなく問題は無かった。体感的にこの程度の運動は自分の体には有益だと判断した。この指導期間が終わっても取りあえず週一から継続しようと思う。高松市からそれについての補助も出るという。

今回の市のサービスには正直驚いている。とても手厚い。案内のプリントが入っていたファイルケースの印刷に、フレイルチェックというのがあり、やってみると完全にフレイルの仲間入り。項目の中で違うのは、「6ヶ月で体重が2~3㎏以上減った」というのだけ。あとは、筋力の低下も感じるし、疲れやすいし、歩くのが遅くなったとも思うし、、、、全て当てはまる。この行く末は要介護へとまっしぐら、との警告だ。いやだなああ~。ここで引き返さないと取り返しが付かなくなるかも知れない、とある。そうかも知れないなあ。脅したり、なだめたり、、、老人問題は大変だ。 

今朝新聞に、ある女流小説家が自分の言い間違いについて面白いコラムを書いていた。その人は、フランス料理店で「手長海老のポワレ」を、「手長猿のポワレ」と言って友人の顰蹙を買ったとあり、「マライヤ・キャリー」を「マラリア・キャリー」だとか。やってくれますねえ。わたしはそこまででは、、、というか、私より5歳もお若い。まあ、だけど同じような人がいて一安心。こないだ自分がやった、「レトロな、、、」を「レトルトな、、、」より酷いじゃん!?って、同じ穴のムジナの戯言か。

 

兎に角疲れやすいのは間違いない。今日朝のプールと午後の孫のお迎え(足を怪我したらしい)と家事のみで、妙に疲れた。夕食後オーディブルを聴きながら横になった途端眠ったらしい。遅い帰宅の夫のために一瞬起きて、膳を整え又爆睡。朝まで起きられないかと思ったがそれはなく、キッチン回りの片付けをして、パソコンに向かって漸く目が覚めた。

こうした間違いを言うようになって久しいが、最初は怒っていた娘が近頃では大笑いするばかり。そうそう、そうでなくっちゃ。みんな許し合ってしぶとく生きていかなくっちゃ~。

2022年9月15日 (木)

市民オペラちぇちぃりぁ、最後の会議。

今宵はちぇちが解散宣言をした公演から、始めての会合だった。コロナに感染して回復はしたが用心のためという一人の欠席者を除いて全員が集合した。一月半会ってないと、最早懐かしいという感じがする。

みんな、今日が最後だというしんみりした空気を纏いながらも、四方山話もありいので、ほんわかとしたものも漂う。みんな大人だ。

今日の一番の目的は会計報告だったが、可哀想な会計君がちゃんと報告書をまとめて持参してくれてスムーズに運んだ。前任者のMさんから、「良かった~」とにこやかに渡されたときはそれ程とは思わなかったが、本当に二度とやりたくないお仕事だった、と述懐する。さもありなん。本当にご苦労様と言うほか無い。

どんな仕事も経験しないと本当のところは分からない。きっと想像を超えた大変さがあったのだと思っている。それを愚痴るでもなく、にこやかに報告する辺り、彼も大人だ。

そして、団長の発案で、少々出た赤字をみんなで折半することで終りにしようという結論になった。正直これは最良の結論だったかも知れないと思いつつ、なんとなく申し訳無いという気分にもなる。プランニングの通りの経過を辿れば起きなかった赤だから、主要メンバーで補填しようと考えたのだが、、、、やっぱりみんな大人だった。

残る作業は衣裳部屋の片付け。全部捨てるとなると、軽トラ一杯では無理だから、ナントカ売れる物は売り、差し上げるものは差し上げ、軽くしてから廃棄しなくてはならない。完全に部屋のお掃除までやってキーを返却するまでを、どうやれば良いか、あれこれ相談した。色んな意見が出たが、取りあえず決めた日程までに諸々出来る事をやり、最後に全員で一気に整理から廃棄までをやってしまおう、となった。ま、公演と同じで、一人では大変だが、みんなでやれば案外それほど時間が掛からないかも知れない。

兎に角、涼しくなってから一斉にやろうとなった。これで懸案事項は一件落着。

会長が、DVDをこれまた格安で作成してくれるとの発言。自分自身は本番は横からしか見て無いから、大いに興味があるのだが、会長曰くどうやらチラホラ、ミステイクが起きていたらしい。観客に分かるほどではないと言うが、逆にそれは見る楽しみが増えた。過去の作品でも、爆笑するようなミスが多々起きている事を思い出す。

最後に各自一言ずつ発言してお開きとなったが、一人一人の声を聴きながら、喉の奥に詰まる物を感じた。その場に居た人もそうだが、 かつてここにいて、共に切磋琢磨していた仲間達のことも思い出す。そして数え切れないほどのエピソードの断片も、脳裏に浮かんでは消える。一人一人話し終わっていく内に、段々「終」を感じていく。

遂に、会場の制限時間となり、バタバタと片付けをして、外に出る。夜9時だというのにまだ生暖かい湿った空気が折からの風と共に頬をなでる。「お疲れ様でした」と三々五々散っていったが、心なしかトーンが低い。

 

が、自分自身は案外大丈夫に思える。以前ある先生が、「命より大事だったことでしょう!」というお便りを下さったが、命もいつかは尽きるようになもので、何もかも受け入れるほか無いことは分かっている。。。。大人だもん!

 

みんなにも伝えたが、ちぇちの名前だけはまだ一年ほど残さなくてはならない。一年かけてゆっくり終わろう。とも思っている。

 

2022年9月13日 (火)

ジェンダー問題。

結局昨日一日で聞き始めた小説を全部聞いた。大変難しいテーマだろうが、まあ、テーマを上手く書き切った小説と言えるだろう。中に、理解しているつもりが、それはあくまで他人事の場合で、自分の身に降りかかってくると簡単には容認できない、という扱いは、これまでも多くの作品が描いていることで、珍しくはない。ちょっと疑問だったのは、主人公の高校生と大学生の男の子二人が、もの凄い美男子に描かれてて、まるで現実に住む人と、異次元に住む人、といった扱いなのは理解に苦しむ。もし本当にジェンダーを取り上げるなら、別にそこまで彼らをハンサムにする必要は無いのではないか?作者の中にもしや差別感が残っているのでは?と疑ってしまう。勿論、内容は彼らと彼らを取り巻く人々との非常に現実的な深層心理の差別を描いてはいるのだが。

今日のニュースで、どこぞのお墓?が紹介されてて、そこは納骨堂のような仕組み。余所と違うのは、例えば男性同士、女性同士でも、一つの箱?に安置してもらえるというものだ。この世で婚姻が認められなくともあの世でも一緒に暮らそうと言うわけだ。、、、時代に即した方法が編み出されているようだ。

女性はみんな同性愛者だ、という文章を何かで読んだことがあるが、確かにそうかも知れないと思う場面が多々ある。ま、要するにアズユーライクイット(お気に召すまま)ってことだろう。

今宵は遅い仕事帰りの娘に晩ご飯を振る舞い、食後はコンサートの打ち合わせ。まるでステージママだ。着々と予約席が埋まってきている。W先生が沢山の人と来て下さるとの連絡が入る。およよよ。皆さんに楽しんで貰うにはギリギリまで気を抜かずやらねば。疲れた、なんて言ってられない。ふ~っ。

2022年9月12日 (月)

夜が好き。

一日の中でいつが一番好きかと聞かれれば、躊躇なく「夜」と答えるだろう。今も間もなく午前様という時間。この静寂。虫の声と時折吹く風の音。道路を走る車の音もひっそりと聞こえる。ようやくクーラーも消し、扇風機も止めているがこの気温も丁度良い。

夜の自由な感じがたまらない。夫はとっくにご就寝。誰からも干渉されず、何か用事を言いつけられることもない。今も焼酎をちびりちびりと舐めながら短歌の校正の画面を見たり、宛名書きをしたり、、、、先ほどは秋吉理香子の「息子のボーイフレンド」という本を聴きながら書類の整理をしたり、、、。これが又おかしい本で一人でゲラゲラ笑いながらである。まだ最初の方だが、ただ面白い本ではなさそうだ。いわゆるジェンダーを扱っているが、あるある的なエピソードが連なっている。ジメジメして無くて、からっとしているのが良い。今や、無関心では居られない時代だ。こういう形でも知ることは良いことだし、考える必要もある。

でも、いくら楽しくても、朝が来るための夜でもある。ず~っと夜では困る。

今日は朝から床掃除と草抜きに追われた。めったにやる気が起きないこの作業。来客があるというので思いきって動き始めたら、急にあれもこれもやりたくなった。雑草はあきれるほど凄い勢いで庭を占領していた。この草抜きは一気にするとろくな事は無いので、本日は三分の一。これだけでもスッキリした。が、抜きながら雑草もキレイな色と形をしていて、なんだか申し訳無い気持ちになる。

午後になって娘とピアニストの衣装合わせをやり、デザイナーも加わりあれこれ検討し一応決める。若いって良いなあと思いつつ、昔の自分も思い出す。思えば色々経験させて貰ってきた。

要するにバトンタッチだ。何もかも。

昨日も娘の車に乗って移動中、つい外を見て似たような植物を見付け、「しゃしゃぶの実が」と言おうとしたら、「しゃぶしゃぶの実が、、」と言いかけて二人で大爆笑。いやあ、頭と口が繋がらない症状が頻発している。「そういえば、お婆ちゃんはそういうこと無かったよねえ」と、娘と話す。車内で尻取り合戦をよくやったが、100歳越えても言い間違えると言うことがほぼ無かった。

ま、人それぞれってことだ。

 

 

 

秋に思う。

どうもスッキリしない。空の青さが秋を告げているにもかかわらず、洗濯物を干そうとするとムッとした暑さに参る。日中、何かと忙しいが、体力の喪失を感じるばかり。家の中では割合スムーズに動けるようになってきたにもかかわらず、体の芯が疲れている。昨夜は2時に寝て、4時に目が覚め、そこからさっぱり眠れなくなってしまった。で、いつの間にか眠って、目覚ましアラームの音を切っては眠るを繰り返し、友人からのメールに返信しては、あとで確認すると可笑しな事を書いている。ハッキリ目覚めたのが10時過ぎで、読み直して慌てて打ち直す。

季節の変わり目のせいか、、、、ま、こんなものかも。

体の不具合は、ほんの小さなことであっても、体全体に影響を与える。健康な精神は健康な体に宿る、という古い言葉に納得している。

が、そんなことは言っていられない。娘の裏方としてやるべき事も多々ある。未だちぇちの後始末もやっている。

日々、ろくでもないニュースに晒されながら、「人の死」を色々考えさせられても居る。あのイギリスの女王逝去のニュースは、世界を駆け巡ったようだが、我が国の元総理の場合と何かが違うなあ。どちらも同じ地球上に生きた人の一人、ウクライナの戦争で死にゆく人も同じ。我が周辺の人々の死も同じ。同じでありながら、それぞれ違う。

いずれにしろ、自分以外の真実を知ることは難しい。マスコミに流れてくる事が全て真実とは限らないし、有名人の人物像は作られた物が多いだろうと思う。冷静に考えるとエリザベス女王は自分が思っているような人だったかどうかよく分からない。どこまでが虚像で、どこまでが真実なのか?しかし、人は生まれてからまっすぐに死に向かって歩んでいるのは間違いない。その運命の中で女王が語った言葉は重みがある。「私の人生が短いか長いかにかかわらず、国のために力を尽くします。」だったかな?これは何度も流れた映像だが、21歳で、こういう言葉を言わなくてはならなかった人は、矢張り特別だったと思う。どのように生きても、必ず訪れるその時を、人類全員が受け入れるしかないわけだが、その一生を明確な目的を持って生きることは矢張り難しい事だと思う。

一時代が終わった感が強いなあ。

 

2022年9月 7日 (水)

観劇の日。

「アルジャーノンに花束を」という題名のSFの劇場化。SFといっても、とてもヒューマンなドラマで、在りそうで怖い、というお話でもある。科学の発達を求める余り人間がモルモット化されてしまう。大筋はそうだが、一番は発達障害を持つ人間が社会で居場所を見付けることの重要性を描いている。人の価値は、決して知能ではないというハッキリしたメッセージ。

このお芝居でもっとも重要なのは、主役のチャーリーが最初は家族からも疎まれる知的障者だが、ある実験によって天才の領域にまで知能が発達するという、この過程を演じ分ける技術だったろう。今日のそれを演じた若者は素晴らしかった。まるで別人の様に演じ分けたその技術に、手が痛くなるほど拍手を送ったものだ。

そして全体のテンポの良さで、息もつかせずぐいぐい引っ張っていくのも流石の劇団「昴」だった。久しぶりに良い作品に出逢えて大満足。ほぼ満席のレクザムホール。みんなの拍手も同感の拍手だった。

やっぱりお芝居は良いなあ~。

 

昨日は、我が家の古いピアノの調律だった。いつものことだが、この調律師は本当に丁寧。4時間近くやってくれたものだ。そして彼と話したのだが、ピアノは壊れることが珍しい楽器で、だから売れないので大変です。とのこと。確かに。わが家に来て40年以上経つ。そしてこの技術者もバブル期と違いなり手が少ないという。コロナもあり、現状とにかく大変だと愚痴を言い合ったものだ。

 

朝ドラが面白くない、とメル友から言ってくる。確かに。自分的にも同じ思い。一つには主役の演技がイマイチなのと、ストーリーにパッションが感じられない。視聴者はしょっちゅう肩透かしをくって、「なんだか、もっと盛り上がりたかったなあ」とがっかりするエピソードの連続。

「夜ドラ」というのがあり、最近そちらの方が面白いと思う。内容に社会批判の様なものを織り込んでいるのもあるだろう。女が一人娘を育てながらコロナ禍で、水商売から宅配便に転職して必死に生きている、、、というものだ。本気な気配が全然違う。

 

といいつつ、明日も朝ドラ見るんだろうなあ。先日の短歌歌会で、「あきさみよー」が問題になった。連ドラを見ている人と見てない人の間で温度差がありすぎ解釈が分かれるのは、よろしくない、という結論になった。しかし、個人的には2~3割くらいは肯定的。日本中に「方言」はいっぱいある。方言にはそのものを言い表すのに、これ以上はないくらいの表現力がある場合が多い。讃岐にも沢山ある。が、讃岐弁と沖縄弁では、何かが違う。同じ知らない言葉でも、沖縄弁と聞けば、その言葉の背景に思いが行く。独特の味があるというか、知らなければネットなどで調べても良い様な気がしている。他の言葉でも調べることは多々あるから、調べなければいけないような言葉は駄目、とも言いがたい。様な気がしている。歌会ではリモートのせいもあり、言えずに終わったが。。。

迷走。

世の中全体が迷走している感がある。ウクライナ戦争の引き起こしたものもあるが、コロナ禍による迷走も相当なものだ。元総理の国葬問題も、首相が迷走している様に見える。イギリスの首相が三人目の女性になったというニュースが流れたが、これとて今後のイギリスの舵取りがこれで安定するとは思えない。台風まで迷走するとは!来る来ると脅されて何事も起きなかったのは例年のことだが、結局温暖化が原因で低気圧などが読みづらくなっているらしい。

迷走の果て、人間はどうなってしまうのか?

(、、、って、一番迷走しているのは自分かも知れない。昨日イオンで買い物をしてクレジット機能付きのカードを落としたらしい。カード会社の若い男性から電話で、最初は口調からオレオレ詐欺かとおもったら、実は自分の落とし物の連絡だった!ってことで、慌てて夜になって取りに行くというお粗末。)

 

われわれは色んな意味で、この時代の証人として生きている。考えてみれば凄い波瀾万丈な時代を経験している様な気がする。大きな天災やテロなどの人災も含めて、歴史に残るようなことが多発している。これが全て地球規模で勃発しているかのように思えるのは、一つには情報化社会のせいだろう。何もかもが一瞬のうちに地球を巡る。人類はリアルタイムで地球上の出来事を何もかも知ってしまう。

これって、幸せなこと?

 

昔、縫い物をしている母の側で寝っ転がって宿題をし、頭上から広沢虎造の浪花節が降っていた時代を思い出す。当時は殆どの日本人が極々狭い範囲で暮らしていたと思う。関心ごとの殆どは、ご近所のことか、小さなコミュニティのこと。、、、今、あの時代に戻りたいかと問われれば、ノーだけど、のんびりした自分の原風景が妙に懐かしい。

 

2022年9月 6日 (火)

自己申告。

本日予め病院に電話して、クラスターのニュースを見たが、通常通りの診察かどうかと確かめてから出かける。なんて時代だ。行ってみればいつに変わらぬ患者の多さ。これを見る限りコロナはどこ吹く風?

一応レントゲンは撮って貰ったが、結果は変化なし。で、あとは問診のみ。「最悪の時を100として、今はどれくらいですか?」と訊かれ、「20くらいです」と答えると、まだそれほど痛いですか?と言われ、「常時というわけではないけど、時折痛いので、、、。」と言ってみる。先生は、「なるほど。では、今暫く現状の通り用心して暮らしてみて下さい。」と松葉杖を継続使用の診断。「薬が苦手なので、、、。」「ではあまり飲まないで結構です。」と処方箋も無し。結果、5週間後にMRIを撮ることに。

この一連の流れを考えると、ほぼ自己申告に対応した処方。もしこれが、「50パーセント痛いです。」とか言えば、どのような対応になるんだろうか?

確かに、用心して暮らしていると、あまり痛まないが、それはある意味当然のことだ。でも、このソロリソロリの暮らしをずっとやるのはイヤだし、以前の様に暮らしたいのが本音。何もしないで完治することがあるんだろうか?あの痛みは「怪我」だったのか?

モヤモヤモヤ。。。

2022年9月 5日 (月)

芸術の秋。

昨日は歌会で一時集中し、「言葉」という人間が生み出したものに取り組んで、いささか勉強もさせて貰った。

今日はヴァイオリンの演奏会のため、はるばる志度まで出かけた。これは結論から言うと、行かなかった人、もしくは行けなかった人は全てお気の毒、という他ない。これほどの凄い演奏会がったたの2千円で聴けるなんて信じられない。このホールは時々こうした補助をして高度な演奏会をやっているのは知っていたが、その中でも今日は珠玉だったのではないか?ナントいってもストラディヴァリウスの音色がこれまで聴いたことがないくらい美しく、N響の首席奏者だったN氏の技術がさすがの素晴らしさだった。テレビでは何度も聴いたことがあったが、矢張り生が一番。ヴィヴァルディの「四季」でN氏がソロを弾いたとき、いきなりその音色が胸の奥深くまで侵入して、得も言われぬ境地になり知らず知らず涙が流れた。そして、周囲を固めるチェンバロ以外10人のヴァイオリニスト達弦の音色が息の合った演奏を繰り広げた。矢張り弦は良い。

ちぇちの楽団で第一ヴァイオリンを弾いてくれたN女史のお嬢さんが本日の二人目のゲスト。お母さんによく似たすらりとした美人で、登場と同時に舞台がぱ~っと明るくなる。見る度に堂々とした演奏ぶりで成長がうかがえる。N氏と互いにアイコンタクトを交わしながら笑顔も交えての演奏は真剣な中にも余裕があり、瞬間あのホールが東京上野のホールかと思うくらい質の高いものだった。

実はホールに入ったとき全く席がなく、それというのも一席ずつ開けていたからだったが、松葉杖をつきながらあがったり降りたりと席探しが大変だった。何故か会場係という人が居ないため、最後にアナウンスが、「お客様が多くなりましたので、ご家族やグループの方はお席をおつめ下さい。」というまでウロウロ。その後も一向に係の人がいない為、最前列、ここも座れないようにしていた紙を全部外して、ようやく端っこに陣取ることが出来たという次第。席に着いた途端ドッと疲れた。予想外に客が入ったということらしかったが、ちょっとこれには参った。このご時世。なかなか大変だ。

ま、自分が悪いというのもある。実はそれほど人が多いと思っていなかったのもあり、開場ギリギリで入場し、ゆっくりトイレにも行ってから室内に入ったから、要領が分かっている人に後れを取ったというわけだ。以前と違って、何をするのも遅々としている自分を分かっていなかったお粗末ではあった。ち~ん。

 

 

芸術の秋。

昨日は歌会で一時集中し、「言葉」という人間が生み出したものに取り組んで、いささか勉強もさせて貰った。

今日はヴァイオリンの演奏会のため、はるばる志度まで出かけた。これは結論から言うと、行かなかった人、もしくは行けなかった人は全てお気の毒、という他ない。これほどの凄い演奏会がったたの2千円で聴けるなんて信じられない。このホールは時々こうした補助をして高度な演奏会をやっているのは知っていたが、その中でも今日は珠玉だったのではないか?ナントいってもストラディヴァリウスの音色がこれまで聴いたことがないくらい美しく、N響の首席奏者だったN氏の技術がさすがの素晴らしさだった。テレビでは何度も聴いたことがあったが、矢張り生が一番。ヴィヴァルディの「四季」でN氏がソロを弾いたとき、いきなりその音色が胸の奥深くまで侵入して、得も言われぬ境地になり知らず知らず涙が流れた。そして、周囲を固めるチェンバロ以外10人のヴァイオリニスト達弦の音色が息の合った演奏を繰り広げた。矢張り弦は良い。

ちぇちの楽団で第一ヴァイオリンを弾いてくれたN女史のお嬢さんが本日の二人目のゲスト。お母さんによく似たすらりとした美人で、登場と同時に舞台がぱ~っと明るくなる。見る度に堂々とした演奏ぶりで成長がうかがえる。N氏と互いにアイコンタクトを交わしながら笑顔も交えての演奏は真剣な中にも余裕があり、瞬間あのホールが東京上野のホールかと思うくらい質の高いものだった。

実はホールに入ったとき全く席がなく、それというのも一席ずつ開けていたからだったが、松葉杖をつきながらあがったり降りたりと席探しが大変だった。何故か会場係という人が居ないため、最後にアナウンスが、「お客様が多くなりましたので、ご家族やグループの方はお席をおつめ下さい。」というまでウロウロ。その後も一向に係の人がいない為、最前列、ここも座れないようにしていた紙を全部外して、ようやく端っこに陣取ることが出来たという次第。席に着いた途端ドッと疲れた。予想外に客が入ったということらしかったが、ちょっとこれには参った。このご時世。なかなか大変だ。

ま、自分が悪いというのもある。実はそれほど人が多いと思っていなかったのもあり、開場ギリギリで入場し、ゆっくりトイレにも行ってから室内に入ったから、要領が分かっている人に後れを取ったというわけだ。以前と違って、何をするのも遅々としている自分を分かっていなかったお粗末ではあった。ち~ん。

 

 

2022年9月 2日 (金)

秋の夜の涙は虫の音色によく似合う。

一日中秋の虫が鳴いている。よほどこのところの雨が嬉しいのか。

先ほどNHK「アナザーストーリー」で美空ひばりのことをやっていた。例によって最初から最後までキッチリ見たわけではないが、色々やりながら見ては泣いた。身内以外でこんなにも泣ける「死」は無いなあ。特にあの声を聴いたら一気にあの頃に引き戻される。一人の女性としての生き方も、真実は知らないのに寂しげで泣ける。昭和が終わった時代だ。

最後の歌声、というのが録音されていて、九州の小倉のホールだったが、とてもそれが最後の歌声だとは思えなかった。多くの国民から愛された女性だったが、孤独な人だったようだ。そして52歳は、若すぎる死。

今、この名前を知らない若い人が居るのが驚きだ。それに、その人達を気の毒に思う。あれ程人の心を打つ歌唱を聴けなかったなんて。我々の世代は同じ時代を生きただけでも良かったのかもしれない。

 

明日は短歌の歌会。秋に相応しいかも。じっくり落ち着いて考えられそう。

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