初めてのテレビ電話歌会は10名ほどで行われた。スマホの画面に6名の顔が写り、発言者の顔は声で判断して入れ替えながらというもので、なかなか面白かった。最初はひたすら照れくさかったが、そのうちそんな事は忘れてしまって、いつもの歌会のように集中した。
およそ世の中の活動で最も縁遠いと思われる短歌の歌会が、最新式のやり方で進行出来たのはまあコロナ騒動のおかげだ。会社の会議や大学の授業なんかはこういいう形が取られているとはニュースで知っているが、まさか自分がこういう事をやることになろうとは。
実は最初はかなり懐疑的ではあった。活字にしてのやりとりとどう違うのかも不明だったし、そもそもホントに会って話すようにスムーズに会話が成立するのかどうか、という点が不安でもあった。
案の定、グループの中にはWi-Fiの不具合で声が途切れる人が居たり、充電が不足気味で不安を申し出る人が出たりして、少しばかりガタガタした。が、予想以上にうまく進行したと思う。
結論から言うと、あくまで会えない場合の一手段だろうと思ったが、例えば地震とか災害で同じように集会が持てない状況が来ても歌会は続けられると思った。こうした手段を持つか持たないかで、人と人が繋がれたり孤立したりということが起きるんじゃないかと。。。この歌会は近未来に一歩踏み出したのかもしれない。
基本的に、生身の人間同志が会って話すことに勝る手段は無いと思っている。その大きな理由は、人間は、表情や仕草、会話の微妙なニュアンスを発信し続けながら対している訳で、一見無駄なようでもこれらが生み出すものは計り知れない力を持っていると思うからだ。それは文章や詩の行間にも匹敵するし、心の奥まで理解する力にもなる場合がある。例えば、思いやりの心や、一度出した言葉を修正したり言い換えたりが簡単に出来ることもそうだ。推敲しまくった論文ならともかく、普通の意見をやりとりするのに、文章では限界があると思う。
ま、それはそれとして、元々こうしたITに対するアレルギーのようなものも、持つ人は持つだろう。文学に相容れないと思っている人も居るかもしれない。しかし、世間ではネット短歌、ネット小説なるものが沢山出てきている。時代と共に変わるモノと変わらないモノがあるな~。
今日は面白い体験をさせて貰った。
そのおかげで、時間が短縮されて、娘と孫を連れて志度のテアトロンにドライブが出来た。道中Tという和菓子やさんの美味しい大福や串団子を買い、タピオカが飲みたいという孫べえの希望を入れて、ついでにそこで美味しいサンドイッチも購入。素晴らしい快晴のテアトロンの石段に腰掛けて美味しく食べた。実は歌会の前は仕事でお昼抜きだったというのもあり、空腹だったのだ。娘とつくずく話したが、こんなお~いと呼んでも隣に聞こえない環境に住む人にコロナはピント来ないで当たり前だろうな~。ってこと。この界隈でマスクの人を殆ど見ない。スーパーはそれなりに対策をしているし、従業員もマスクだが、客の方ははほぼなし。ホント、この状態が継続できればそれに越したことは無い。
偶然にしろ、娘達がこちらに住んでくれてホントに有り難い。あのまま、東京のど真ん中に住んでいたら、本人達も大変だが、こっちも半端なく心配してる所だった。
息子の茨城も気にはなるが、、、、。甥も東京だし、姪は大阪。今こういう核家族ばかりだから、みんな神経が休まらないな~。無事を祈るしか無い。ふ~っ。