母の歌。
今日は歌会。花見の季節とて、参加者はいつもより少ない。かくいうこのワタクシも、明日は雨という情報に急遽母を施設から連れ出し、公淵公園へと出かけた。したがって歌会への参加は大幅に遅れてしまう。
今出ようと玄関に立ったら、たまたまやって来た友人Tが「嬉しい!私も行きたいと思ってた。」と言うので吾が愛車に娘親子とT女史と母の5人で乗り込んで、予想通りの人出の中をお花見へと出かける。上手い具合に身障者の為の駐車場に停められて、車椅子で広場へと移動。いつも母を連れ出すときは人の少ない平日を選んでいたのだが、今日ばかりは暑い位の日差しの中、思い思いに敷物を広げてお弁当を食べている家族連れなどで一杯の桜広場は、何故だろう?心が安らいだ。母もその光景を楽しそうに眺めている。慌てて準備した夕べのタケノコご飯の残りと時々購入する○○チャムのお総菜だが、みんなで食べると美味しい。母の様子を見ていたT女史が、「自分で食べられるなんてお母さん、凄いわ!」と感嘆の声。勿論元気な時とは違って車椅子から助手席への移動にはホントに時間がかかるが、それでも、「自分で乗り込めるのは凄い!」と一々驚いてくれる。孫べえとボールのやり取りをホンの少ししている母を見ても、「えええ???そんなことが出来るの~?」と驚いてくれる。こういう言葉が母を励ましてくれているのが分かる。「ハイハイ、マラソン選手だったからねえ。」と笑いながらの返事も軽い。
施設で今日も担当者の女性に、「お母さん、良くここまで快復されましたねえ。私たちも驚いています。」と言われ、「皆さんのおかげです。本当に有り難うございます。」と言うと、「いえいえ、こうしたご家族の方のご協力があってのことです。」と返されて、その言葉に「おや?」と思う。こちらとしては協力している訳ではなく、むしろこちらが協力されているという認識だった。この施設はこの意味でホントに凄い。一度引き受けたからには責任を持って介護しますという立ち位置が明確だ。本当に有り難い。だから送り届けて車を玄関先に回すと、「お屋敷に帰りましたか?」と母が冗談を言うわけだ。
ホントに申し訳ないとご挨拶もそこそこに車を回して歌会の会場。熱心な発表の声が聞こえるドアをおして中に入ると何時もよりは少なめの参加者。急ぎ集中して脳内モードを短歌に切り替える。
今回の提出詠は母を詠んだが、それに対しての思いがけない好評を頂き恐縮して聞く。中には涙ぐんで高評して下さる方もいて、驚くばかりだったが、それらを聞きながら思ったのは、私の歌の評をしつつ、皆さんのそれぞれのお母さんへの思いを言葉にしておられるということ。誰にでも母はいる。それぞれの状況は違っても、共通の、「想い」はあるわけだ。そして、その母への想いはそれぞれに価値があり、それぞれに重いものだ。
自分としては、出来うる限り母を詠んでおこうという思いがあり、稚拙ながらもそれに向き合っているのだが、他のテーマと違い多くの人の共感を呼びやすいのだと想った。、、、「青風」の中にも多くの母を想う歌がある。きっと世の中には夥しい数の「母の歌」が存在するのだろう。