「柳橋物語」
3時間の芝居がさほど長いと思えなかった昨夜の「柳橋物語」。山本周五郎の原作は、昔の日本人の人情を象徴的に描いて、現代人の無くしたものを様々な角度から展開して見せた。
終演後立ち上がると、後ろの席のややお若い人たちが、「最初から最後までもやもやもやで、結局分からなかった。」とぼやいていたが、現代人には理解が難しい内容だったということか。
Aという男性がB女という女性にぞっこんで、彼女のために日夜足を運び彼女の病気の祖父の面倒から何から世話を焼いている。
ところが彼女には言い交わした男性Cが居る。Cは江戸を離れ大阪で一旗揚げて帰るまで待ってくれと言って出立。
時が経ち、突然の江戸の大火。その上その地域は洪水にまで見舞われるが、Aのお陰でB女は命を助けられ、自分も誰の子供とも分からぬ幼い乳呑み児を助ける。しかし、Aの所在はさっぱり分からず、恐らくは亡くなったと思われる。
身寄りのないB女は親切な人々に助けられ、貧乏ながらも何とか生きている。そこにB女を探し当てたCが現れる。しかし、乳呑み児を抱えたB女を、それはAとの間の子供だと疑うC。もしその児が自分の子でないというなら捨ててこい、と言う。一瞬抱えて外へ飛び出すものの、どうしても捨てられず、彼の疑いは晴れないまま決別。B女は、「きっといつか分かってくれる。私たちは約束したんだから。」とそれまで待つことを我とわが身に言い聞かせる。
もやもやもや。
もやもやもや。
ところが次に彼が現れたとき、彼は別の女性と結婚している。絶望の中で、B女は思い出す。Aが自分に尽くし続けてくれたことを。そして自分を助けるために命を亡くしたことを。その男性に自分はなんという残酷なことをしてきたのか、と改めてAの自分への愛を認識する。
しばらくして、三たび目の前にCが現れる。ある人から、全て真実を聞いた。自分の破廉恥な言動を赦して欲しい。というもの。Aのことをお前が嫌い抜いていたことが分かった。それなのに自分は、、、、といつまでも謝り続けようとするのを遮って、それは違う。と言い放つB女。この子は本当はAとの間に出来た子なのよ。私が嘘をついていただけよ。と。
あっと驚くC。。。。その場を信じ難い思いで立ち去るCだが、、、、この場面。見ていても、彼が本当にB女の言葉を信じたのかどうかさえ良く分からなかった。
もやもやもや。
しかし、これが一番丸く収まることは確かだ。
確かだが、なんだかスッキリしないものが残る。恐らくは後ろの席の人たちも、「どうして本当のことをもっとしっかり分かってもらおうとしないのか?」「誤解した男性がただ待つだけで帰ってくるというのは考えられないではないか?」などなど、疑問符が一杯だったことだろう。
この作品の本当に伝えたいテーマは何かと考える時、一つには「真実の愛」だろうと思う。それを得る為には多くの困難をくぐり抜け、精神的成長をしなくてはならない。
おせんという少女が、大人の女性へと変貌していく過程を通し、困難に打ち勝ち、何度転んでも立ち上がり、勇ましく生き続ける姿は尊い。
そしてもう一つは、下町の人情だろう。とにかく名前も知らない人をも助け、ありったけのものを惜しげもなく提供する。助けたり助けられたり。どんな時も支え合って生きていけば越えられるという強い信念。
題名の「柳橋物語」が示す様に、人間にとって必要なのは、「橋」。
題名の「柳橋物語」が示す様に、人間にとって必要なのは、「橋」。
満杯のレクザム小ホールが、咳払いもなく、シーンと静まりかえっていたのは、それだけある意味現代人への問いかけや警鐘が含まれていて、それぞれが何かを考えながら見ていたということだろう。いつもは必ず寝てしまうという吾が友人も、「全然寝なかったわ~」と笑う。
これほど長いお芝居で、これほど観客を惹きつけるのも珍しいが、所謂、和物特有の立ち居振る舞いや、物腰、台詞回し、どれもが美しい。「前進座」、残っていて欲しい劇団だ。
これほど長いお芝居で、これほど観客を惹きつけるのも珍しいが、所謂、和物特有の立ち居振る舞いや、物腰、台詞回し、どれもが美しい。「前進座」、残っていて欲しい劇団だ。