「復活」を台風の日に観る。
風雨が段々強まる中、昼食後に今日は映画鑑賞と決めてレンタルで借りていたトルストイの復活をイタリア映画で観た。そりゃあ外国の作家のものを違った国で作るというのは珍しい事ではないから、この映画が存在することは別におかしな事ではないが、日本語字幕の間から漏れ聞こえる言語がイタリア語で、風景その他がすっかりロシアというのもいささか妙な感じがしたのは事実だ。考えてみると、そのリスクを冒してでも原作に忠実に作ろうと取り組んだイタリア人監督の、「復活」にかける情熱はもの凄いものがあったんだろうと想像できる。おそらくはこの大作を自分たちの手で、映画化して世に送り出し、自分の得た感動を人々に訴えたかったのではないかと勝手に想像した。
もしそうなら、彼らの思惑は少なくともこの私目には的中したといえる。久しぶりに映画を観て泣いた。人間の心の一枚岩ではない、自分でも複雑で捕らえがたいあり様に、思いっきりメスを入れてくれる。一方で、人間はここまで自分に厳しく魂の尊厳を問い続けて生きることも出来るんだという、ある意味の理想像を示してくれる。大昔に原作を読んだのがおぼろげながら思い出される。
「罪のない人間は居ない。」という事実はキリスト教信者でなくとも理解出来るが、その罪に気付いたとき、宗教的思考で無く、真の意味で自分に問いただし贖罪が出来るだろうか。これはかなり難しいだろう。だからこそ宗教が存在するんだろうし、、、。
昔の若者は今の若者よりは本を、こういう世界の大作と言われる本を読んでいたのではないだろうか?その必要性を説く先生に恵まれていたとも言えるが、世の中の風潮も今とは違っていたように想うのは私だけ?一つの家庭に「世界文学全集」や「日本文学全集」が並んでいたのは珍しくなかったが、、、。こうした本を読むことで、どれほど沢山のことを知る事が出来るか、、、、とても今の浮かんでは消える小説や漫画の類とは比較に出来ないものだと想う。(偏見か?)
この読書という行為で救われる事も多々ある。迷える若者達に、是非読書を勧めたいなあ。
マララさんのノーベル平和賞で、「教育」こそが世界を救うと訴え居ているのが評価されたことに諸手を挙げて賛成だ。「識らない」がために、自分を弾丸にして、死に急ぐ若者が後を絶たないのもその一例ではないか。
「教育」の中には陶然読書も含まれる筈だ。
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