映画。
友人の再三の勧めがあって、本日「チョコレートドーナッツ」という映画を観た。カルチャーの後でメンバーとおうどんを食べ、別れてすぐに入ったが、午後1時50分始まりのこの時間帯のせいかどうか、たった3人の観客だ。なのに冷房が効きすぎていて、膝掛けを借用したくらい寒かった。が、映画の内容はとてもホットで確かに良い映画だった。
かいつまんでのストーリーは、離婚して転職し、弁護士になった男性Aがひょんな事からバーで歌い踊る女装の男性Bに惹かれる。そして二人は親密な関係になるが、ほぼ同時期に薬物中毒で育児放棄をしている母親の子供と仲良くなる。その母親が逮捕され投獄されたのを知り、自分たち二人で預かり育てようとする。その自閉症の子供も二人に良くなついて、そこに新しい家族が成立したかに見えた。が、彼らの前に立ちふさがったのは、国の定めた法律であり、世間の偏見であり、人々の差別感だった。なんとしてもゲイの二人には預けたくない検察官や裁判官の、法律を口実にした詭弁にどうしても太刀打ちできない二人。どんなに施設の女性や、子供監督局の女性が、二人はこの子の親として大丈夫だと証言しても、それは裁判の結果には結びつかない。挙げ句の果ては、検察側は投獄されていたはずの母親と取引までして、彼女が子供を引き取る代わりに刑を軽くして仮釈放してやるという手を使う。そうして無理矢理引き戻された母親は、再び薬に溺れ、その子を外へ追い出してまで男性との快楽にふける有様。
その子はその日、本当の家族を求めて3日3晩歩き回り、とうとう橋の下で餓死してしまう。
ある日、この一件に関わった裁判官や検事達にそれぞれ手紙と新聞のコピーが送られてくる。手紙には、「大きな事件のニュースの片隅にこの小さな記事が出ていたのを、あなたは知らないでしょう。あのマルコム(死んだ子供)の記事です。。。」
これを読んだ人々の顔が少しゆがむのを見せて映画は終わる。、、、それでも正義はなされたのだと言わんばかりに、、、。
「差別」これは簡単な問題ではない。自分の中に本当にそれが無いのかと問われると、全くの白ではないように思う。ゲイの人々を生理的差別感で見ていることは,矢張りあるように思う。が、そういう自分を何とかすべきという強い思いは持っているつもりだ。わが周辺に実際カミングアウトしている人で尊敬できる素晴らしい人が何人もいる。どこが素晴らしいか。思考回路が、人生の辛酸を舐め尽くした人のそれで、暖かく優しく、尚かつ男性的な発想や理論展開を見せる事が出来る点。これは生まれつきの女性はなかなかこうはいかない点だろう。
「差別」はなにもゲイに関するものだけではない。ありとあらゆる人間の営みの中に潜在的に存在しているものだ。世の中から、全ての差別が無くなれば、それはほんとうに素晴らしい世の中になるだろう。
この世が神仏の与えた人間修行の場であるならば、ゲイで生まれてきた人もそうでない人も、みんなが試行錯誤の試練のなかで生かされているのだろう。
良い映画だった。
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