「生の発作」
今日は珍しい案内があり芝居のゲネプロというものを観に行った。殆ど本番と同じように演じたようだったが、それは一握りの客の為というわけでもなさそうだった。
「音楽劇」というもので、全体を一台のピアノが演奏し2時間45分もの長丁場を弾き続けたのはさぞかし大変だったろう。出演者はよく訓練された人達ではあったが、どちらかというと生の歌とセリフと動きに合わせなくてはならないピアニストに同情したなあ。
見終わって、なんと哲学的~!と隣の友人共々感じ入った。
ま、見方を変えれば少々難しい劇だったとも言える。パンフレットの演出家のコメントを見れば、この作品の現在地は海の上が設定されていて、しかも登場する人物は既に死んだ人の紹介から始まっている=無に始まり無で終わるということらしい。登場人物達のセリフには聴いたことの無い様な言い回しがいくつもあって、新鮮というか、なんというか、、、。
その中の一つ、生きてるということは、生(せい)の発作だというのがあって、思わず吹き出した。発作ねえ。まあ翻訳劇だから、訳によってニュアンスは違うのかも知れないが、それにしてもおかしい表現だ。
感心したのは役者さん達の洗練された動きだ。こうもキレイに動けるものかと歌を聴きながらもその動きに惹きつけられた。整然として正確な動き。極端にシンプルな舞台装置で、人物がその代わりを担っているため、これが必要だったのだろうが、それにしても凄い。俳優座プロデュースで、テレビで見たような人もいたが流石に声が良い人が多い。
やっぱり演劇も面白い。
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