忙殺。
忙殺という言葉があることを思い出して、言い得て妙だとつくづく思う。殺という字が別に殺すという意味ではないにしても、フィーリングがこれ以上はないくらいにぴったり来るではないか。
娘が一人息子を連れて帰省してからというもの、覚悟はしていたがそれ以上に大変な日々を過ごしている。勿論、娘のことだけではなく、前々からの予定が目白押しで、その上にということだ。
例えば昨日のファッションショー。主宰者の友人から司会を仰せつかったは良いが、前日のリハなど全てを取り仕切らなくてはならず、覚悟はしていたモノの目が廻るとはこのことだった。着物を洋服にリメイクするというこの講座。友人Yが70歳過ぎてから講師となり、沢山の生徒さんを抱えることとなって丸2年。平均年齢は高いとはいえ、それだけに「着物」に対する思いも若い人とは違うようで、この講座は大繁盛しているというわけだ。
事前にアンケートに書いて貰った、「その着物の素性」は殆どが、「想い出」を上げていて、例えば母の形見です、とか義父の大事にしていたモノです、嫁入りの時母が持たせてくれたものです、とか若い頃着たものをリメイクしましたなどなど、近親者の思い出と共に製作されているようだった。
が、矢張り日本人の中にはその行為にすんなりついて行けてない人達も多いようだ。一番大事な着物はどうしてもほどけないなどと感想を聞くこともある。かといって着る予定があるわけでもないが、着物は着物であってこそ価値がある、という意見のようだ。確かに、その思いも分からなくはない。自分の事を考えても、いつか着るかも知れないという想いから、タンスに眠ったままにしている。まあ、娘が着るかも知れないという淡い希望もあるからではあるが、、、。
これこそ、国を二分する意見かも知れないなあ~。
で、今日は春の音楽祭にちぇちがご出演、の日。
風邪を引いて出られないといってた人もナントか復帰出来て、一応全員でショートショートを決行。リハもやったが、結果は、期待通りとはいかず、舞台の難しさを改めて感じた。そして矢張り、練習回数がもろ結果として出てくる、ということも再認識。今年の暮れの公演の為には良い試練だったと思う。今回を踏まえて次回を頑張ることだろう。
ただ、観客は皆さんとても暖かく、「あのいつもの楽しい団体か!?」という拍手をくれる。この会に参加も随分永くなったからねえ~。間違いなく常連だし、他のどこも遣らないことをやっているので、記憶には残っているようだ。これが、この指たかれに繋がってくれたら良いのだけど。なかなかそうはいかないのが残念だ。これほど沢山の人が合唱など音楽をやっているんだけどねえ~。誰か来てくれないかしらねえ。
で、こんな中明日は母も一緒の一泊旅行だ。膝が痛いという母をこないだ病院に連れて行くと、かなり水が溜まっていて、左右とも抜いてくれたがまだ痛むようだ。今朝になって行くのを止めると言い出した。車いすを借りて、絶対歩かせないから、、、と説得して、予定通り行くことになったが、はてさて、どうなりますことやら、、、。アチクシは只今娘であり、親であり、祖母でもあるという次第。上から下から頼られて、、、、それでも痩せないのは、な~ぜ?