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2012年6月10日 (日)

常識と闘う人。

情報とは漏れるもんだなあ。昨日病院で点滴したというニュースがを娘が知っていて電話してくるし、ある人からもメールに「聞いたけど、、、大丈夫?」というメールが来る。あっちゃ~てなもんだ。

ナゼ点滴か。理由は分からないが急な高熱と倦怠感と、この私が完全な食欲不振に陥ったため。こんなふうな食欲不振は、長い間経験がない。とにかく水とスイカしか受け付けないのだ。で、今日の本番を前に何とか体調を戻そうと、病院に行き、点滴をし、整骨院で軽いマッサージ。何とかなるだろうと高をくくって就寝するも、全く眠くない。これは困ったと、睡眠導入剤を飲んだが,1時間ラジオを聞いても全く眠くならない。通常深夜放送を20分も聞けば眠っているはずが、尋常ではない。これはまずいと、再び導入剤。が、これも全く効果無し。目はらんらんとしてきて、なんども七転八倒してはトイレを繰り返し、ああ、6時か、、、という時にようやく眠った。1時間ほど熟睡したらしく、起きてみると案外元気。、、、あれはなんだったのか。点滴のせい?そんな馬鹿な。

 

で、ともかく9時にホール入りし、汗びっちょりになってロビーの飾り付けやら照明音響との打ち合わせ、やがてやって来たちぇちのお手伝いメンバーに資料を渡して説明していたらあっという間に開演だ。ホントに本番の日の時間の経ちかたはいつもと全く違う。しかも今回は出演者ではなく、司会という形。少々勝手が違う。

司会は、言いたいことを言わして頂くという形で進行したが、別室で操作する照明さん達の為に司会者のセリフ台本のような物を作成し、それを渡すというこの資料作りが大変だった。大体において、司会はいつも曲目とか、演目を頭に入れたら、その時思いつくままを自由に言うというのが自分流。あらかじめ台本を作るというのはホントに面倒この上ない。が、これをやってないと、手違いが起きて舞台がスムーズに展開しないため、やるしかない。なんとかかんとかやっていても、それでも現場は生ものだ。何が起きるか分からない。

 

さて、本日のイベントは何か、と聞かれたら、説明が難しい。Kさんという50台半ばの女性が居る。この人は仕事を持っている上に、10指に余る趣味を持ち、今回その方面のお仲間を巻き込んで全ての「発表会」をやることにした。で、「私こういうことをやるの」と一言言ったら、関係ないグループも出演したいとの申し出が相次ぎ、盛り上げたい一心で快諾を続けていたら、とんでもない大事になってしまった。しかし彼女は長く印刷会社に勤務していた経験もあるため事務能力もあり、あっという間に企画を完成させた。が、ここまで大きな事となると、安易な舞台作りは出来ないとなった。かる~く考えていたあれこれが、俄に彼女をパニックに陥れた。「Help me!」と駆け込んできてからはこっちが大変な事に。、、、まあ、熱も出るわいなあ~。

あまりの欲張りな企画に、私はかなりクレームを入れた。「常識」では考えられないことをよろうとしていると。ホール入りして他の裏方に聞いても、全く同意見。みんな引きずり込まれてあっぷあっぷ。私同様クレームを付けた人も居たようだ。が、結局は彼女は自分が思ったとおりにやってのけた。凄い。のひとこと。

ある友人は言う。それは県民性だと。なるほど、彼女は高知出身。讃岐の人間は概して保守的で、石橋を叩いても渡らない人が多い。ところがKさんは叩く前からその橋を飛び越えている。

 

そこで今日の私の「言いたい放題」の司会はある意味受けた感はある。恐らくは私同様の思いを抱いて鵜の目鷹の目で見に来た人も居たんだろう。司会しながら、ここまで言っても大丈夫?と自問自答していたが、一切よいしょはしないよと宣言してあったので気が楽だった。が、こうした調子の司会が途中で詰まってしまったことが1回ある。というのがある演目の指導者が出演の折り、読んで欲しいというメッセージを読み始めたときのこと。「いつも誰もいなくなったスタジオの片隅で、一人黙々と練習をしているKさんを見て、感心していました。、、、」ここまで読んで、私はそのKさんの姿が脳裏に浮かびグッと来てしまったのだ。こみ上げる物を堪えながら最後まで読ませて頂いたが、何をやるにしても上っ面をなぞるようにしかやらないという印象を持ったことが恥ずかしいと思えた。自分の根底に「人間そんなに多くのことが出来るはずがない。」という「常識」がはびこっていたのだ。

 

「常識」について、面白い論調の文章を読んだ。人間がナゼ「常識」に拘るのか。それは種の保存に他ならない。生まれて成長し、一定の年齢に達したら仕事をし、結婚し、子どもをもうける。やがて、その先に連綿と子孫が増え続けるのが人間にとって望ましい、、。というものだ。

周りの声や、周りの行動が、その人を幸福にしたり苦しめたりして、これまでと違う生き方や行動を促す。これが「常識」の持つ力。と彼は言う。いや全くその通り。かくも「常識」は怖い。

「常識」もそれにそって生きている時、我々の心は安定する。しかし、そこからはずれると苦しむ。

常識の恐るべきパワーから逃れる1つの方法は同じ種類の人と集うこと。てなことも言っている。

常識に従い続けるのはハードルが高い。常識は下世話で、ミーハーで、即物的。気まぐれにどんどん変わっていく。そして次々と高い要求を突きつけてくる。そんなものには自分の幸せを委ねられない。、、、というのがこの博士の主張だ。

 

Kさんはこの意味において、「常識」と闘っている人かもしれない。考えてみれば、吾が周辺もこの「常識」と闘う人がケッコウ居る。私自身もそうだとの思いを新にした。

 

結論=「色んな人が居て良いんじゃない?」てとこだ。

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