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2011年9月

2011年9月29日 (木)

終わりと始まりと、、、。

連日連夜公演のために奔走している。勿論仕事もやってるで~、と友人にメール。「信じられない」との返事が来るが、私自身信じられないこのテンションの高さはどうだ。今日もマスコミにある依頼に出かけたり、、、。

こんな中、裏の2階の部屋に、布団という布団を乾燥のため全部出っぱなし状態だったが、それを片付けようとしても全部は出来ず、夕食時に夫に愚痴る。「もうエネルギー切れで全部出来なかった!」と言うと、敵もさるもの、「いっぺんにすることない」、、、、そうくるか。「そりゃあそうだけど、、、。」と闘いを即刻諦めたところに、一人暮らしの友人Tから電話がかかる。「今岡山から帰ったんだけど、どんなに探しても家の鍵がないから今晩泊めて!」おおお~~あれは神の啓示だったか!?もし裏を何も片付けてなかったら、ピアノの部屋か玄関の部屋という条件の悪い部屋に寝て貰わなくてはならないところだった。「勿論良いわよ!」とアルコールが入っていたので迎えには行けないが、彼女が到着までの間に夜具を整えて深夜の訪問者を招き入れる。夕方セリフの練習をやった後で、この時点で疲労はピークに達していたが、久しぶりのこととて、積もる話しもありいので、ついついビールだワインだつまみだとなる。

シャワーを浴びて、Tにお休みを言ってから、午前1時半という時間に再びパソコンに向かう私を見て彼女はあきれ顔。「信じられない」だそうだ。そうだよなあ~。自分でも信じられないよ~。

翌日の今日、彼女を送って家の周りを一緒に探索したが、キーは矢張り出てこない。じゃあ警察だと近くの署まで届けに行き、我が家まで再度連れ帰ろうとしたが、途中舞台用の衣装の小物を物色するためホームセンターに立ち寄ることに。で、思いついてそこの鍵やさんに事情を言ってみると、案外簡単に家の鍵を開けて貰えることが分かる。数千円、もしくはキーの取り替えで1万円くらいだというので、結局彼女はそれを選択。急ぎとって返すとその技術者が既に待っている。ドライバーみたいな物を使って試みるも、最近の錠前はロックがかかっていて、簡単には開かないんだそうだ。が、ドアではなく、大きなガラス戸の方をちょいちょいとドライバーでいじったら、にゃんと、30秒もかからないくらいでスルスルッと開いてしまった。「ありゃ~、これはちょっと危なかったわねえ~」と私が言えば、本職の彼もかなり心配してくれている。気を付けた方が良いですよ~、との置き土産を言い置いて5千円なりを受け取ってさっさと帰って行った。その間、ものの5分。はあ~っ!

しかしまあ、これで一件落着とばかり、「おうどん奢るから」という彼女の言葉に甘えて近くの美味しいと評判だといううどん屋さんへ。セルフのそのお店で、Tは大きな声で、「二人一緒ねえ!」と叫んだは良いが、その直後、「わあ!お財布が無い!忘れた!」と来る。お盆を持って移動中だったアチクシ、慌ててとって返し二人分を支払う。ゲラゲラ笑いながら食べるおうどんは倍ほど美味しかった!口では、「悪い悪い」を連発しつつ、古い友人のこと。お互い笑いが止まらない。、、、年取ると芸が増えると言うけどねえ~。

 

10時過ぎ、練習を終えて帰ろうとしたらそのTからメール。「本日は、大変お世話になりました。これからもどうぞよろしくお願い致しまする。」とあり、思わず思い出し笑い。いやはやいやはや、、、、。

 

かくして我々は年を重ね、芸を増やし、確実にある地点に向かっている。そのように、このように、一見若者と同じような活動をしているかに見えるが、裏側はかなりやばいのだ。、、、、それを充分に理解してくれる若者によって、ちぇち丸は大海原をこぎ出している。

前回の「こうもり」で、自分自身は「終わり」を実感したが、どうやら完全に終わらせては貰えないと分かってからは、覚悟を決めて自分を鼓舞してきた。そしてここにきて、いわゆる引き継ぎという作業が軌道に乗り始めたことを実感できるようになった。これは素敵なことだ。と思う。私がいつまでも居ると思わずにやっていこうと言う新会長の言葉に、私が一番救われている。、、、どうか、みんながそうして新しいちぇちを創り上げていって欲しい。形なんて、ホントはどうでも良いことだ。メンバーの一人一人みんなの居場所としてのちぇちがこれからも存続し続けて貰えたら、、、、大それた事をやってきたが、いや、又してもやろうとしているが、個人的な感想を言えば、「みんながある時、懸命に生きた証」としてのちぇちの活動の一環に他ならない。

普通の主婦が、OLが、会社員が、全精力を傾けて一つの目標に向かっていく。「火事場の馬鹿力」的なエネルギーの爆発によって公演が成功するのだ。もしこういうことに出会わなければ、全く違った人生になったであろう程の影響力が「落語ペラ」にはあってほしい。

年老いて、自分の辿った道を振り返るとき、その道の真ん中で燦然と輝いているのがちぇちの公演であって欲しいなあ~なんてこと思うのが、そもそも年取った証拠だ。

さ、3時までには寝るとしよう。朝は必ずやってくる。

2011年9月25日 (日)

幸せな人生。

先日58歳の若さで逝ってしまった人の奥さんAさんが来店された。全く詳しいことは知らなかったが、その臨終の模様など聞かされて、改めて哀しみに襲われた。家族みんなで最後まで出来るだけのことをして送ったようだが、まるで映画の一シーンのような息の引き取り方だったという。ベッドに横たわり息の乱れる父親の両側に二人のお嬢さんが添い寝をする形で、父親の顔の側、昔の思い出話をあれこれ交わしている中、その時は来たという。Aさんは娘さんに言われて初めて息のないことに気が付いたようだ。逝き方としてはある意味最高の状態だったかも知れない。きっと娘さん達の幼い頃に、彼も思いを馳せながらだったに違いないのだ。素晴らしい家族に囲まれて、大切にされて、、、、、でも、若すぎる死だった。

Aさんが入ってくるなり、店先に貼ってある公演のチラシを見ていて、二日目の公演が、「うちの主人の誕生日だったわ!」と言う。この夫婦は彼らが独身の頃から知っていて、浅からぬ付き合いがあったが、誕生日までは知らなかった。「行こうかな~」とぼそっとつぶやく彼女に、「是非写真を持って来てね」と私。「うん、そうするわ」と彼女。言いながら二人とも泣いている。彼らはよく二人揃って来てくれていたのだ。

癌の治療は最新のをやろうとしたらしい。神戸にある病院では、自分の細胞を培養して免疫力を高めた物を再度注入するという治療法をやっているんだそうだ。この話しは他の人からも聞いたことがあるが、ピタッとはまって助かったというのは、私はまだ聞いたことがない。何とか治療法が確立されればいいけど、先は遠い感じだなあ。

たまたま昨夜テレビで「私の中のあなた」というタイトルの洋画を半分くらい見たが、それも癌の治療を巡る人間の闘いが描かれていた。娘を癌で亡くす母親が、それを受け入れられず家族の中で孤立していくというものだったが、そりゃあなかなか受け入れられないだろう。いくら苦痛で弱り果てた本人から、「もう良いの」と言われても、簡単には行かないだろう。

 

あのお方も精密検査でひっかっかったというのが風の便りで届いたが、精密検査の結果が何事も無ければ良いが、、、。別の友人で、あと数年と宣告されるかもしれない人がいて随分落ち込んでいたが、、、、、周辺にこういう話しが多くなってきた。同窓会に行けば、1年の間に4人も亡くなっていたり、、、、、全く遠い先ではない感じ。

今日ご来店の88歳のご婦人が、「もうもう一杯やることをやっておいて、これ以上は出来ません、という所までやって悔いのない人生を送らなくてはいけませんよ。明日どうなるか分かりませんから。」と言われたが、確かにそうだ。その方の場合は、大病もされていて、やりたいことがあっても体力が無く、歩くのもままならなくなってきて、うちへも送迎が必要な状態だからで説得力のあるお言葉だ。

 

夕方母を伴い、100円ショップに行って何を買ったか。3倍の拡大鏡だ。いままで2倍のを使っていたが、小さい字を見るのが苦痛どころか写真すら全く見えなくなってきたからだ。折角友人が「天竜川下り」に行ったときの写真を持って来てくれたのに、さっぱり自分がどこに居るかさえ見えないので、仕方なくだった。、、、でも、かければまだ見えることを喜ぼう。そう、膝の手術後も、こうして歩けていることを喜ぼう。なかなか覚えられなくなってきていても、こうして歌えることを喜ぼう。ダイエットしつつも、美味しいと食べられることを喜ぼう。遠く離れていても、子どもが孫が、私を慕ってくれていることを喜ぼう。弱ったとはいえ、こうして我が車に乗り込んでくる母がいる事を喜ぼう。、、、、あれもこれも泣きたくなるほど、しあわせだ。

ちょっと酔っぱらってる、、、、。

夕方からとある会合に出かけ、早速そこで公演の宣伝をさせて貰う。といってもまだ先の話し。ピンと来ない感じではあったなあ~。やる側と見る側の時間に対する感じ方が違うのは当然のこと。そんな中で、同窓生達はこれをきっかけに飲み会を企画してくれて、誘い合って出かけてくれるという。ついつい注がれるままにビールが胃袋に、、、。ここのお料理はいつ食べてもホントに美味しい。中華が苦手な人でもいけるお味だ。それに良く合うんだなあ~これがビールに。

面白かったのは、男性達も膝が痛いだの、腰が痛いだのっていう話しが多かったことだ。思いがけず、ここでも我が入院手術の体験談をご披露することとなる。

そういえば昼間は大阪の友人が久しぶりに帰郷してきて、彼女もこないだ膝を内視鏡で手術したばかりだったので、これまたその手の話しに花が咲いたもんだ。先輩ぶって、「その靴はヒールが高すぎるよ!」なんぞと言ってみたが、あんなに呑気な人も珍しい。仕事の復帰も早かったが、ゴルフに行ったとか、11月には山に登るとか、信じられないことばかり言う。大丈夫かなあ~?

この友人も大阪から遠隔操作で、こちらの友人達に宣伝してくれると言う。いや全く。有り難い。

 

いままで、ホントに手作り感がプンプンしていたちぇちの公演が、まずはチラシからして過去にないほど立派なものが出来てきた。印刷関係のお方の甚大なるご協力による物だが、これを筆頭に、今回も外部の方々がどんどん応援してくれている。こんな時代に自分の利益を優先させることなく、ばばっと協力体制に入ってくれる方が集まるというのは、有り難くて身が縮む思いでもある。感謝の心をお届けするのは、ひとえに舞台をかっちり作ることに尽きる。

又明日から頑張ろう。

2011年9月24日 (土)

寒いなあ~。

暑さ寒さも彼岸まで、とは昔の人の言葉通りではないか。今日の寒いこと。急に暖かい物が欲しくなる。

 

今日もセリフの個人練習。やってみて一番大事なのは、その場の「解釈」だと分かる。全体の中の自分、はたまた全体の中の自分と相棒。それらが読めてないと違った方向に行ってしまう。しかし、ひとたび理解すると、面白いようにセリフに色が出てくる。動きと連動すると、もっと深みも出る。そうなってくるとその場の歌が生き生きしてくる、、、こういうことを、面白いと思わなくては完成しないだろう。ま、完成なんてなかなか望めはしないが、、、。

 

 

先日東京の「原発反対集会」がニュースに流れていて、私の大好きな大江健三郎氏のスピーチが流れたが、にゃんと、とあるお方もその場に居たらしい。生まれて初めてのデモ行進にも参加したと、そのメールには書かれてあった。

思わず昔昔、新宿の「安保反対闘争」の現場に偶然行き会わせた時の事を思い出した。新宿西口の広場に大きな人だかりが出来ていて、何だろうと思ったら、真ん中にフォークソングを歌う人が居て、それに手拍子を打つ人、一緒に歌う人、中には泣いている人などもいて、好奇心から近づいた私はいつの間にかその輪の中の人になりきっていた。やがて駐車場が上から下に丸く流れ込んでいる上の当たりに、ジュラルミンの縦がずら~っと並んでいるのが見える。「そこの人たち解散しなさい!」とそこからスピーカーが繰り返し威嚇する。それに対して、一斉に「帰れ、帰れ」とシュプレヒコールだ。この輪の中には、いわゆる闘士も居ただろうが、殆どの人が電車を利用する一般の人たちだった。

又あるときは、友人と高田馬場を歩いていると大勢の人が行進しているのに出会う。方向が帰る方向だったし、一度も歩いたことが無かったので、歩いてみようとその行進の中に友人共々入ったものだ。代々木上原まで結構な距離だったがそんなに大変とも思わず、それこそ生まれて初めてのデモ行進にワクワクしていたのを覚えている。しかし、そこから新宿の駅に着いたときは流石に怖くなった。上から見下ろすと線路の上を学生とおぼしき人々が逃げ惑っているのがあちこちに見える。ヘルメットに手ぬぐいを顔に巻き付けて、棒の様な物を振り回しているが、明らかに警官の方に分がある。忽ち捕まり棍棒で殴られているのが見えたり、映画さながらの場面に慄然とした。、、、これは現実だろうか、、、なぜここまで、、、、などなど考えたものだ。

そう、それからの私は、突然考える人になったのだと思う。平和な田舎に住んで、両親の元で、ぬくぬくと暮らしていたポット出の若干24歳の女一人。初めて「国」単位で物事を考えるようになったのだ。

、、、しかし、あのエネルギーは一体どこへ消えたんだろう、、、、と思っていた矢先、今回の知らせが飛び込んできて、「前の方に行こうとしてもなかなか行けなかった」程の人垣が出来ていたという言葉に、そうか、まだそのくらいの力は日本人にも残っていたんだと嬉しくなった。こういう運動が無い世の中なんておかしい。外国のニュースなんか見てるととても多いと思うなあ。

とにかく、みんなが考える人でなくては、、、、。

2011年9月22日 (木)

やぶれかぶれ会議。

昨夜は7時~10時の練習後、我が家での運営委員会。解散時間記録更新の午前4時45分。その後いつ寝たのやら、記憶に定かでないが、夫がいつ起きたかも知らず、電話で起きたら10時を回っていた。その後慌ただしく準備をして、午後のフェリーで岡山へ。眠いはずなのに、ちっとも眠気が来ず、昼食もまだなのにいつものようにうどんマイ定食を食べる気も湧かず、こりゃあ、行ってもものになるかなあ?と心配したが、まあ、まだ行けた。いつものように熱心な人たちに押されて、無事2時間を勤め上げ、無事帰りのフェリーに乗船できたのはめでたい。

 

昨夜は急に寒くなって、温度計は一気に5度も下がっていて驚いたが、フェリーは室内をまだ冷房している。外の風が気持ちよくて、デッキの椅子でぼ~っと海を眺める。まだ台風の余波かと思うほどにさざ波が立ち、笹舟のように漁をする小舟が2隻揺れていた。何時もに似合わずゴミだらけの汚い海面に、続けて沢山降った雨のことなど思いつつだったが、人間はゴミを出す動物だなあと改めて嫌な気分に。ゴミに埋もれて死んで行くのが人間の性なのか。

 

帰宅して、速攻マッサージ機に突入したのが功を奏したのだろう。あるイベントに招待されて友人と出かけたが、ボサノバを聴きながらも、全く眠くない。この女性はなかなかに上手い人だった。友人のご主人で無類のボサノバ好きを思い出したが、ケッコウ聴いたことがある曲が多かった。世界中に良い音楽があるなあ。

 

これからたっぷり熱いお風呂に浸かり、こんやはよく眠ろう。眠りこそ最良の生薬だ。

2011年9月20日 (火)

嵐の前の静けさ再び。

今年は迷走する台風に一喜一憂する日々が続いている。今日はJA●のサービスで、20年以上の会員には携帯メールで警報その他を知らせてくれるというので、さっそく登録してみた。すると、入るは入るは!!ひっきりなしに情報が入ってくる。息子と娘家族の住むところとをを登録したら、次々と台風情報だ。むむむ、、、。地震は良いけどねえ。

 

まるで、この台風はちぇちのようではないか。行きつ戻りつ、、、、、ぐるぐる回り。現在比較的静かなのは後から怒涛のように押し寄せる本番への濁流の前の静けさと言えなくもない。

まあ必ずしも静かでもないけどねえ。

 

今日はある新人メンバーから、勇気ある質問をいただいた。大勢の前で疑問を口にするのは大変勇気がいることだ。それも今年初めての参加となればなおさらのこと。それでも頑張って質問してくれたことに、まずは感謝だ。「良い舞台に参加したい」との思いに他ならないからだ。

質問しない古参の連中はどうか。彼らは、長いこと一緒にやってきて、「この団体が悪いことや曲がったことをするはずがない。」という信頼関係の中にいて、「任せとこ~」的なところがあるんだろう。これは実は落とし穴かもしれない。新しい人たちの目で見て、おかしいところはおかしいと指摘しあいながらやることが大切だろう。その意味では、会長はその先陣を切ってくれている。泥船をしっかりした機材で補修してくれているという感じか。

 

ただ、台本を読み込むという作業は、なかなかに難しい。大概の疑問は台本を読めば解決できる仕組みになっているが、ほとんどの人が、上っ面を読み飛ばしている。まあ、最終稿が出るまでの場つなぎと考えているんだろうが、、、、。

私も過去に色んな台本を見てきたが、おそろしく不親切なのもあったなあ~。ほとんどト書きなしで、台詞のオンパレード。そこから想像力を膨らませるなんざあ、出来なくはないが、幾通りもありすぎてわけがわからなくなる。先日朝の連ドラのヒロインが出て、その台本について話していて興味深かったが、かなり「、、、、、、。」が多い台本で、かなり困ったんだそうだ。そう思ってドラマを見ていると、なるほど、そうだろうと思わせる。ベテランの演技は、その「、、、、。」を巧みに演じているのがわかる。

 

さあ、四の五の言ってる場合ではない。どんどん時間がたっていく。。。。。

 

 

ただ今、午前3時前。なぜこんな時間にブログかというに、帰宅してからあれこれメールを打っている最中に、やっちまった!!焼酎の水割りを思いっきりキーボードにぶちまけた。ティッシュでしっかり拭いたり、叩いて水分を落としたり、最後はドライヤーで乾かしたりしたので、キーボードが壊れてないかを確認するためだ。こうして打てていることはめでたいことに、どうやら壊れてないらしい。やれやれ。助かった~。コホン。

2011年9月18日 (日)

鬼の霍乱?

遂に発熱だ。何が嫌って、熱に弱い身体なんだ。平熱が低いせいもあるだろうが、体質遺伝かも知れない。父が微熱程度でもわいわい言ってたのを思いだす。

ま、ちょいと無理してるからなあ~。仕方がない。死ぬことはないだろう。と高をくくっているが、まあ用心に超したことはないだろう。いっぱいやることがあるが、ちょっと今日はもう寝よう。といっても午前様だ。

 

とにかく、何とかお金を使わずに効果的な舞台をと四苦八苦しているのだ。これが何時もに増して大変な作業となっている。あああ、どっかから大金が降ってこないかなあ~。そしたら何もかもプロにお任せで、立派な舞台が出来るんだけどねえ~。お金を使わないことを考えたら自分で汗をかくしかない。汗だけなら良いんだけどねえ~。

 

天からやってくるのは台風だけだ。又二つもウロウロしてるようだからねえ。

2011年9月17日 (土)

痛いなあ~。

やっぱり予想通り昨日の転倒による痛みがあちこち出て来た。にもかかわらず今日は全く落ち着かない一日だった。

チラシの印刷というものは、見ても見ても、というか修正しても修正してもどっかこっかが違っている。今度こそと思っても、又印刷会社から電話が入る。確認したり仕事をしたり、合間には短歌の締め切りに向けて歌を詠んだり。またその合間には家事をやらなくてはならず、どうも昨日からおかしかった体調がますますよろしくない方向に向かっている。疲れから来る風邪だろうが、昨日転倒したせいで、あちこちメリメリ痛いしなあ~。

しかし、リクライニングの椅子っていうのもねえ、どこまで安心して良いのやら。

 

調べ物をしている中で、NHKのオンデマンドに911の特集があり、ちょいと見てみたが、「アメリカは何故憎まれるのか」というタイトル通り、どっからみても大国のエゴが事件を生んでいるのが分かる。そういう目でビンラディンを見ると、ホントに英雄に見えてくるから不思議だ。そして、その番組の解説者はアメリカ人で、自国を告発するという点も又、アメリカという国だ。その手の映画だって沢山世に出ているからなあ~。こういう風に考えると、あの事件で無くなった人は浮かばれないあろうが、、、。

人間は反省できる動物なんだ。間違いも犯すが、反省も出来る。とまあ、そういう番組だった。

それにしてもNという元首相が昨日インタビューに応じていたが、相当の年齢だと思うのに、しっかりした口調で、とうとうと自説を述べる当たり、その主義主張はともかく昔からの政治家だとつくずく思わせた。人によってこうも年の取り方が違うかと驚かされた。

 

又台風が来ているようだ。

2011年9月15日 (木)

言霊?

あまりの慌ただしい生活の中で、恩師に失礼を詫びるメールを出したところ、「ひっくり返らないようにね」というお返事を頂いた。それを読んで内心ふふんと思っていたが、にゃんと、ホントにひっくり返った!パソコン椅子が息子の見立ててでかなりリクライニングするやつで、近頃肩が凝ったりするから仕事の合間に時々ぐ~んと背を伸ばして椅子を後ろに倒していたんだけど、さっき、まさかの転倒!いきなり仰向けにどど~んといってしまった。今は肘とか首がちょこっと痛いが、明日はもっとどっかに痛みが出るかも知れないなあ。

 

先日、娘から孫べえが唇の下をけがした写真をメールしてきたので、「何?虐待?」と返事したら怒って電話してきた。なんでも近頃色んな物を踏み台にして高いところにある物を採ろうとするらしい。で、遂に転落して側にあった椅子の角であごの辺りをしこたまやったらしい。顔の出血は派手だから、夫婦共々大慌てだったようだが、落ち着いてから娘が言うにはこの私のせいだというのだ。思わず、「はあ?」となったが、彼女曰く、「お母さん、言霊っていうのがあってね、この前、男の子は転んだり落ちたりするもんよとお母さんが言ったからこうなったのよ!」ときた。「そんなアホな」とゲラゲラ笑ったバチがあたったのかも~。まさかね。いやはやいやはや。どこで怪我するか分からない。

 

孫といえば、息子の方の孫べえからは今日ハガキが届く。「みっちゃん、じいじい、いつまでもながいきしてね。」とあってこれまた二人で笑うしかない。父親が書いたらしい表の宛名の悪筆よりよっぽど上手いねえとじじばばが評論して笑ったことだが、言霊がホントにあるなら、我々は長生きするかもねえ~。長生き、ねえ~。

2011年9月12日 (月)

生きる術。

メチャクチャな日常を少し落ち着いて整えるつもりで出かけた短歌の歌会。本業が忙しく半分ほども遅れたか。みんな熱心にあらかじめ提出してあるプリントされた歌を前に集団思考を続けている。最初は疲れが出て、生あくびをかみ殺しながらの参加だったが、段々字が目に入るようになってきて、歌を解読(?)しようという体勢が出来てきた。それでも疲労感がぬぐえず時々思考回路が点滅を始める。

なんとかかんとか終えて、外へ出ると同窓生のYさんが、「この頃なんだかなにもかもやる気が無くて、、、、」と述懐し始めた。まあ同年代だ。わかるわかる、と相づちを打ちながら別れたが、こういう時もありながらみんな終着点まで行くんだろう。時々駅で降りて一服するのも良いのかも~。

 

夕べはEテレビが東北の震災の検証番組を再放送していたが、かなり驚いた。あの大きな地震のあと津波が来ることを何らかの情報で知っていたか?という質問に半分の人が知らなかったという。他にもいろいろな質問の答えの中で、マスコミなどで情報を得て知識はあっても、それを自分のこととしてキチンと把握して、実際にそれを利用した人はほんのわずかだったらしいことが分かった。特にテレビからの情報が役に立った人が10%程度だったのは、局アナではないが報道のあり方を再検討すべきだろう。

もしや今度の大量の犠牲者が出たには何か訳があるのではないかという私の予想が当たったらしい。

そして今日のNHKの特集だ。石巻市の一大堤防が、襲ってくる津波を市民の目から遮ったこと。二つの大きな堤防が相乗作用で、より大きな津波を作ったこと。「防災の街」として、日頃充分な知識や備えを持っていると自負して暮らしていたこと。ラジオで「ただ今6メートルの津波が予測できます」と言われても、「ああ、それならあと4メートルあるからまだ大丈夫」と思ってしまったこと。実は、これらのことが重なって大きな被害が出たこと。

 

これらのことは、何を物語っているか。いろいろなことが考えられるだろうが、誤解を恐れずにいうなら、「人間の浅知恵」がもたらした悲劇だろうか。あるいは、これが人間の限界だろうか。仙台の知人が、「我々は昔からの高台に住んでいて助かったが、新興住宅地がどんどん拡がって、海よりに海よりにと住宅が延びていった、その辺りが全滅しました。」と言われたのを思い出す。

我々の日常では、これほどの文明社会で危険は誰かが教えてくれると思っているし、我が国は、あるいは我が地域は文化的で、より安全な暮らしが出来ていると、心のどこかでは安心して暮らしている。、、、、それは、まるで、自分には「死」が訪れないように思って暮らしているのと似ているかも知れない。

 

今日の歌会でもちょっと話題に出したことだが、ネットで見つけた動画の一つ。あるローカルの局アナが、モニターに映る航空写真動画を見て、海辺で大勢の局の人間が取材している姿に殆ど怒って絶叫し、逃げろ逃げろ逃げるんだ!とテレビ画面で叫び続けたのは凄かった。現場に居る人間には見えていない、迫ってくる大きな津波の様子が現場から離れている放送局では把握出来るという皮肉。そのテレビ画面は、その航空写真動画と現場と叫ぶアナウンサーが全部写っていて、余りに現実的な映像がかえって逆に非現実的に思えたのも奇妙なことだった。

しかし、これぞ報道のあるべき姿ではないかと、私は思ってしまった。キチンと礼儀正しく整然と、「警戒警報がでました」と言われても、緊迫感が乏しく、次なる行動へと結びつかないのではないか。

311のあの時、確かに日本列島全体はあの報道に怯えた。テレビに釘付けになった。しかし、肝心のその場に居た人々はあの空からの映像を見るでなく、ほんのすぐそこまで来ている津波にすら気が付かなかったわけだ。

そうした中で生還できた人々が、今日の特集で一様に語ったのは、「とにかく、なんとしても生きたい。生きる為にどうにかしよう。」というそれだけを考えたということ。ほんの偶然が生死を分けたにせよ、この強い思いがあったればこそだろう。

 

人間は、この先色んな角度から「生きる術」を模索して行かなくてはならないのだろう。今まで以上に。

2011年9月 9日 (金)

朝晩は涼しくて、、、。

夏の疲れか、はたまた日々の疲れか、、、、マッサージ機にホンの少しかかるつもりが、3回までリセットしたのは覚えているが、あとはどれくらいそのベッドに居たのか定かでない。それほどよく眠っていたようだ。何度も起こそうかと思ったが、可哀想で起こせなかったとは夫の弁。まあ連日の私の動き方を見ているからなあ~。同情もしているんだろう。

 

今日は本業の合間に文書の作成。その合間にメールの返信。そしてまだキャストを捜している。次々とゲストからの連絡も入る。明日はこれ又しんどい打ち合わせに行かなくては行けない。、、、いやはやいやはや。

そうこうしている間に本日はCOOPで仲間がやってくる。飛んで火にいる夏の虫ではないが、早速「広告」のお願いをする。あれも食べて、これも持って帰って、との攻勢にたじろいだ友人は腐れ縁に免じて今回も多額の広告を出してくれることとなる。このご時世、ホントに有り難い。別の友人からも、チケットはまだ出来てないかという問い合わせが入る。近々集まりがあるからそこでみんなに紹介してあげるというのだ。有り難いがそれがまだなんだけど、上手く間に合えばいいが、チラシさえまだ完成してない!

 

メールと言えば、最近とみに「送信済み」のチェックをするようになった。このメールに返信したかどうか?あの件をあの人に伝えたかどうか?あの案件は処理できたんだったか?な~んて、記憶を辿るより、送信履歴をチェックした方が間違いがない。、、、以前はこんなこと、無かったけどなあ~。

 

先日、高校時代の恩師の奥様が書いたという本が友人から回ってきた。その恩師とは、部活で随分とお世話になった方で、未だにあの頃のエピソードが鮮明に思い出される。そのころを思いながらページを辿るとご夫婦の愛情が切々と綴られていて、今はこの世の人ではなくなったあの先生のお顔が目に浮かぶ。良き伴侶に恵まれ良い人生を送られたということも。もっとも気のけない人に最後を看取って貰うということは矢張り一番の幸せかも知れない。

我が友人の中に、その人生の伴侶に二度も先立たれた人が居るが、淋しいことだろう。

 

まだ扇風機の前でパソコンを打っている私。どうしてもその日の内に寝られないなあ。

2011年9月 8日 (木)

急に涼しくなったなあ~。

今日は疲労困憊することを予想して、昼間の移動はメンバーの車で 。午後2時過ぎという時間に友人の経営するパスタ屋さんで適度に空腹を満たし再度移動開始。夕方まで色々物色し、買い物もし、ギリギリ夜の練習会場コミセンに駆けつける。今日はセリフの練習がメイン。やればやっただけのことはあるが、セリフというのは理解を深めていなければ出来ないこと。そこのところから説明が必要で矢張り疲れる。が、まだ始まったばかり。これからなんだ。何もかも。

 

それが終わって10時からは我が家での運営会議。これは大変に重要な会議で、神経も疲れる。なんだか、大勢でああでもないこうでもないとやっていたときと違って、何かが漏れているような気がしてならない。システムが大幅に変わり、色んな事から段々遠ざかろうとしていたものが、311の津波みたいにこのか弱い(!)私を襲ってきているという思いにかられ不安になることもあるのだ。

勿論これは、会長交代という時代の変遷に当然起こるべくして起こった事態ではある。この新会長。まるで燃料が満タンの巨大なトラクターみたいな人で、荒れ地のようなちぇちの土壌をガガガ~っと掘り起こしならし、新しい樹木を植え付けようとしている。いやまったく、彼にとってはやりがいがあろうというもんだ。それこそ東北の瓦礫の撤去を連想させるではないか!?

 

この新生市民オペラちぇちぃりぁが、どこまで新生なるのか、期待感もあるが、一方で年のせいだろう、不安感も完全にはぬぐえない。どうか、みんながしっかりついて行って欲しいと願うばかりだ。これで気持ちが揃えば、どこにもない素晴らしい団体になることは間違いない。時間がかかっても、そういう結果になれるよう、気持ちをしっかりキープしていきたいものだ。

 

今日のさようならお休みなさいはやっぱり丑三つ時を過ぎていた。ねむっ!!夜ご飯抜きだった!ま、いっか。

2011年9月 7日 (水)

昨日は初めての演出。

舞台上で何が難しいって、大勢の人間を、バラバラに、しかしある意味と統制を持って動かすということだ。昨日の練習では、全員参加の部分をやったが、案の定ことは簡単ではなかった。これは予想通りで、ここからみんながどう進化していくかという点が面白いところだ。全員肩に力が入っている。頑張ろうという意識が働きすぎているのだ。が、これはみんなの性格の良い部分でもある。いままで会長指導の下やってきたエチュードがバチッと決まるようになっているというのも、性格の素直さ、訓練の結果が出せる様になった証だ。大いに希望はある。

 

先日の個人レッスンをダブルキャストの相棒に伝達するよう指示したら、早速練習後に外の広場でやっている。きっと成果が上がったことだろう。こうして色んな場所で舞台上のことについてのディスカッションが始まっていく。こういうことが大事。建設的な意見交換は必ずプラスに作用する。

 

それにしてもこの日初めてノルマなど発表されたが、初めて参加の人はぎょっとしただろう。これでもこんな舞台をやるには破格の金額だが、それを知らない人にとっては、不安な気持ちにもなっただろう。ベテラン組も今までよりは多くなっているから、それなりに頑張らなくてはならない50回記念公演だ。矢張りホールの使用料くらい照明大道具など制作関連くらい、助成を頂けないものか。ふ~っ。

 

 

今日のニュースでまだ雨台風の仕業が報道されている。今年ほど、「水」に振り回された年は無いだろう。是非とも何故その人達が被害に遭うような事になったのかを検証して欲しい。どこにホントの原因があるんだろう?

2011年9月 5日 (月)

一生の重荷。

テレビの番組欄というものを全く見ない私だが、たまに良い番組に行き当たることがある。今夜のはイーテレビというもので、局の若き女性ディレクターのおじいちゃんの死からその話は始まった。全くのドキュメンタリーで、カメラもはしょったりせず、言葉が出ない老人をいつまでもいつまでも待つという作り方。それだけに真実が伝わり、見ている方も自分がその場に居るような感じを受ける。

遺骨の中から弾丸が出て来て、その処分を巡って親族が話し合い、そもそも何故おじいちゃんの頭にこの弾丸が残っていたかという自然な疑問を、そのディレクターが色んな人にあって解明していくという筋書きだった。

彼女が幼い頃膝に抱かれて昔話で聞いた戦争の話し。海軍航空士官として敵の艦隊を空から撃沈し、勇敢に戦ったという武勇伝。それが実はそんな単純なものではなく、あるときから「無駄死にはするな!」と部下に言い、必ずしも上官の命令に従わず爆弾も無駄に海中に捨てて帰ったことがあるという衝撃的な話しに、祖父を尊敬し慕っていた気持ちに乱れが起きる様子。しかし、その行為によって多くの人が救われて生還したという事実に複雑な思いは増すばかり。

彼女の「知りたい」という思いに現在90歳前後の戦友達は重い口を開くが、それは涙と共に語られ、中には、言おうとして言えない苦しい気持ちのまま口ごもり続ける人も居る。、、、、この人達にとって戦争は過去の話ではない。この若い女性にどうやってあの頃の自分たちの気持ちを伝えれば解って貰えるのか、という思いから辛うじて出て来た言葉が、「分かるでしょう?5秒前に話し合っていた人間が目の前で死んでいく、、、。それも大勢の戦友達が、、、。それを見ながら嫌でも戦っている自分。そりゃあ最後はやけっぱちですわ。上官に反抗して出撃はしても何もしないで帰ってくるってことはありましたよ、、、。」

そして、なんど聞いても祖父の本当の気持ちを語ろうとしない祖母。演技ではなく、心底から出る言葉は知りたい孫をたじたじとさせる。どうして言えないかという質問にも、「家族のため、子どもや、孫達の為、私の為に言えない。」と小さな声で、しかし、しっかりとした口調で返す。そこに、長年苦しみを共にしてきた夫婦愛を見て思わず泣けた。そして、その大事にされた孫におじいちゃんからの形見としてガラスのひび割れた懐中時計が渡された。おばあちゃんと二人で時計屋さんにそれを修理に持って行くと、職人さんが蓋を開けてまだ動くと説明してくれるが、二人はそんなことより蓋の裏の写真に驚く。完全にセピア色になったその写真は、若き頃のそのおばあちゃんの写真だった。全くそれを知らなかったらしいおばあちゃんが、思わず涙してそれを手に取るシーンは芝居がかった派手さはないが、見る人の心にずしーんと届いただろう。

実は、私が一番心に残ったのは別の事だ。

出て来た集合写真は、台湾でのもので、多くの戦友と共に写っているが、その写真の裏には部隊の名前と「お前と俺とは同期の桜、、、同じ花なら、、、」というあの軍歌が達筆で書かれている。

この矛盾。昭和20年と言えば終戦の年。そのころ、証言に寄ればこの方は多くの戦友達をむしろ助ける側に回ったらしい。なのに、この写真の裏の軍歌。華々しく散ることをよしとしたこの歌に、何を込めたのか。そうして散っていった戦友達への鎮魂の意味か。頭に受けた弾丸をそのままにして、一生その肉体的苦痛と精神的苦しみと共に生きたその人のことが、私の心には大きく響いた。こんな過酷な試練を受けざるを得なかった当時の若者達に、しばし心を寄せる時間となった。

 

この、昭和20年、12月。私は台湾で生まれた。

2011年9月 4日 (日)

漁師さん。

いやはやいやはや、情報に振り回された感があるなあ~。

刻々と台風の進路とそれに伴う警報が発令されて、各交通機関が全てストップして、異常にのろのろとした進路で進むお騒がせマンが、我が家に居る限りでは全くどこをどう通っていったのかが解らないくらいの影響だった。友人曰く、「余りにテレビを見ていて怖くて眠れなかったから、今日は適当に見て良く寝ることとします。」というメールが入って来たくらいだ。

勿論、今回も被害にあった人は居る訳で、こういう情報提供は必要なんだろうが、何度外へ出てみてもいつものより一寸ひどいくらいの雨風だったから、首をかしげてはもう来るかもう来るかと気にしていたのだ。全く台風らしさを感じないまま終わって、あれは一体なんだったのか?と妙な感覚だ。こんなことなら予定通り打ち合わせも出来たじゃん!?てなとこだが、まあ、実際来なかったからこんなこと言えてるんだけど、、、。

人間進歩してるのかどうなんだかさっぱり分かんないなあ~。

医師が触診問診を余りしてくれなくなって、検査だデーターだと、数字ばかりで判断するのと似てないかなあ?ひょっとしたら昔ながらの漁師さんとか、農家の人の方が予知能力があるんじゃないの?って、思ってしまったわい。

漁師さんといえば、偶然かかっていたテレビ番組をチラ見していたら、「隣の晩ご飯」とかいう番組で夕飯時にテレビカメラが突然訪問するというのをやっていたが、あんな番組がよく成立してるなあ~。なんかすれすれの感じがするなあ。みんな人が良いと言うか、テレビカメラの前だと、ついいい顔してしまうんだなあ~。こっちは見てて気の毒なこともあるけどねえ~。かなり高齢のおじいちゃんが本音で一人怒っていたのが面白かった。「おまえは勝手に来たんなら、来るべきじゃない、、、」みたいなことを口走っていたなあ~。

この番組で唯一感じたことは、漁師さんというのはみんな格好いいなあ~ってことだ。仕事を懸命にやって家族を守ってるというのが良く現れていた。男らしい職業だ。残念ながら知人に一人も漁師さんがいないなあ~。

2011年9月 2日 (金)

情報、情報、情報、、、。

あと2時間で高松が満潮を迎えるという。台風が到来するのとほぼ同じくらいかもとも、、、。大きな被害が無ければ良いが。

 

しかし、その情報のお陰で夫は仕事が午後は休みになり、私の衣装会議も明日に延期。本業と打ち合わせの仕事をしたら夕方から思いがけないゆとりの時間となった。夫曰く、「早めの夕食で早めに寝よう」と。いやいやもったいない。この時間をただ寝るなんて、という気持ちと、おちおち寝てられないという思いで、久しぶりにたまたま映画チャンネルでやっていた「シャネルとストラビンスキー」の映画をまるまる1本見た。

内容はそんなに珍しいものでなく、芸術家同士のありそうな不倫がそのテーマだったが、役者がみんな素敵で、特にシャネル役の人は女が見てもほれぼれする格好良さ!あのセンス。あの目線。あの態度。あの身のこなし。どれをとってみても、確かに愛されるに値する要素が一杯だ。相手の作曲家もそれなりに素敵だが、描かれ方がなんとなく女性に負けている。しかし、映画は二人が生涯心底愛しあっていたように描いていて説得力があった。チャーミングな悲しい妻役の人もはまり役で、、、、要するに面白い映画だった。

特に音楽を通して愛情表現をする間面など巧みだったし、実際彼の音楽がバックに流れて彼らの人生と重なると、思いを音楽に乗せて作曲したのだろうと思える。

好みの問題だろうが、ラストであの素敵だったシャネルがシワンシワンのおばあさんになって、がに股で真っ白い部屋のベッドに白のシャネルスーツで小さく横たわる、なんてのは見たくなかったなあ~。男性は充分老けられず、その差がありすぎるのもいやな感じだったなあ~。まあ制作者は「老人になってもお互いの気持ちは変わりませんでした」と言いたかったのかも知れないが、チト残酷物語になっちゃった。、、、私の短歌と同じで、下の句がエネルギー不足だったかも~な~んちゃって。

 

 

今、午後11時半になって、避難命令が出てると言ってたので、我が家に来るようにと電話していた友人から、「あまりの雨風で怖くて運転できない」と言ってきた。だからそうなる前においでと電話したのに~。ったく。といくら言っても後の祭り。どうも近くの小学校に行くらしい。家のスグそばに海に続く大きな川が流れていて、危ないと想っていたのだ。無事だと良いが、、、。

 

高知の友人に電話したら、時間が早かったせいもあるが、「え~?テレビも見ずに東京から来た孫と一緒に餃子焼いて食べたところ!」とのんきなもんだ。「テレビをみて~っ」と叫んだことだ。

 

大阪の友人から、「ニュースで高松のことしっかりやってるで~」とメールが。「今映画見てる。参ったか!」と出すと、「ふん!まいらへんわ。のんきもん相手にしてもどもならんわ!」と捨て鉢な返事。

 

婿殿の母上からも心配メールが。やっぱり情報というのは凄いもんだ。一気に全国を駆け巡る。あの日もそうだったなあ、、、、。

今日のお仕事。

予定してあったセリフの練習を、約1時間我が家でやって、慌ただしく夕飯を済ませ、今度はとある方のお家まで会長共々出かけていき、これまた2時間以上ああでもないこうでもないと、作業を続ける。この若きプロのお家には4歳の可愛い女の子が居て、癒されつつのお仕事となった。ホント女の子って可愛いなあ~。男の子とはまるで可愛さの質が違う。

 

セリフは、苦手意識の強い人とそうでない人がいるのは当たり前だが、舞台に上がると決めたからにはどんなに苦手だろうとやらなくてはならない。そう決心したところから、その人には可能性が開けていると思う。

今日のAさんもやる気は満々。しかし、そのノウハウは全く知らないわけで、一からの勉強となる。でも今日のレッスンの最後にはそれを楽しいと思えるところまで行けたようだから、ひとまず予定通りだ。「セリフって、深いんですねえ~」が、彼女の感想だった!

人間は本来日常的に演技しているわけで、それに気付いてないだけだ。その人の演技力を引き出すのが私の役目かも知れない。今回もダブルキャストで、それぞれが同じ役名でも個性が出るのが当然だ。それぞれが違った演技をしてくれるのを楽しませて貰いたいと思っている。同じ気持ちで、両方とも見てくれるお客様もいらっしゃるんだから、そうでなくては、、、。

 

二番目のお仕事は、その方面のスキルを並以上に持つ方が協力を申し出てくれて実現した、途方もないお仕事だ。こちら側素人は、何の技術も持たないくせに、ひたすらああしたいこうしたいと、勝手なことを言う。でも頼もしい彼は言う。「今、こうしたいと思った事が実現できる時代になっているんです!!」おお~ナント有り難いお言葉。、、、こうした凄い助っ人のお陰で、今までも、これからも、分不相応な舞台が実現できるんだ。音楽の守護聖者「ちぇちぃりぁ」様はやっぱりいらっしゃるのか!?

2011年9月 1日 (木)

まだ暑い!真夏と変わらない。

まあホント、ここに書く時間も無い。いや時間もだがそれよりも体力精神力の消耗が著しい。、、、でも毎日何とか希望を捨てずにやって行けてるのは、会う人会う人が、こちら側のやろうとして居ることに賛同してくれるからだ。思いがけない協力を申し出てくれる人も居たり、新しく知り合う方々が多い中で、逆にこちらが励まされているという感じだ。

例えば今日はバレエ教室の主宰者と初めてお会いしたが、今回の公演のどの部分を切り取ってお話ししても、「それは良い、それは面白い、なんて楽しい会でしょう!?」と手放しである。

その上、公演に出演のお子様達をむしろ積極的にまとめて下さるようだ。私自身そちらの方は門外漢であまり分かってないが、丁寧にお話し下さったお陰で順調に事が進みそうだ。初めてというのは緊張するものだが、お互いざっくばらんに話し合えて気持ちよくお別れできたのは何よりの収穫。

 

夕方になって別口の方々と、ホールのロビーを見学となる。この人達は、ホールのロビーという今までにない空間を使って、それぞれの作家さんたちが新しいことをやろうとして下さっているのだ。ここに、全体を統括してくれる二人の女性が加わり、面白がってみんなで盛り上げてくれようとしている。、、、、この企画は、もしかしたら思いがけない結果に繋がるかも知れない。なにやら、素敵な風が彼女たちの居る辺りから巻き起こってきそうな気配だ。

 

 

バレエの先生といい、この作家さん達といい、共通しているのは、お互い、信頼し合いながらも(それぞれ紹介者がいるから)納得いくまで話し合いが出来るということだ。細部にわたり、不安の無いように準備するということを手を抜かずしっかりやってくれる。この分だと、安心して、我々は舞台に専念できそうだ。

 

ご来場のお客様に付加価値をと始まったことだが、参加してくれるこういう人々もみんな、結局はお客様の事を考えて下さっているという点が、最も好ましいし有り難い。

何かのキャッチコピーではないが、輝いている女性が大勢居るなあ~、、、、どうか、最後まで、この流れのママに全てが動いていって欲しいものだ。

 

 

今日はこういうお仕事が多くて、書類をお届けするお仕事は代わって貰ったが、昨日はその書類の作成に追われ、それを届けてたっぷりお話も聞いていただいて、殆ど一日つぶれてしまった。朝起きてから顔も洗わずひどい格好をしてクーラーをガンガンかけて作業をして朝も昼も食事を忘れていた。なのにお腹がキュルキュルしてピーだったのはな~ぜ?しかも夜は我が家で会議。「もうこんな時間!」と解散して11時過ぎ。その前の日はちぇち練で、読み合わせから例によってロビー会議。守衛のおじさんに追い出されるのが毎週の事になっている。確かに場所を変えて話し合うというのも疲れている上にだから、ロビー会議も良いんだけど、何となく、話し合う場所ではない、落ち着かないというか、、、、、こういうところが若者と違うんだろうなあ~。ま、勿論付き合うが。

 

今回は今までになく大勢の人々を巻き込んでいる。確か、地域の文化行政が望んでいたのはこういう事ではなかったか!?弱小団体ながら、夢だけは大きいちぇちならではのあれこれがどこまで出来るか、、、。みんなの力にかかっている。

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