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2011年4月

2011年4月30日 (土)

明日天気にな~れ。

毎日毎日信じられない時間の速さ。その一番の理由は1歳の孫べえの世話係。後追いが終わらないチビ助の為に、せっかく檻までレンタルして大騒動して組み立てたにも関わらず、そこに一人では絶対居ないと泣きわめく王子様に、結局は付きそう乳母となる。こんなことしててホントに良いのか?と自問自答しつつも、流されているアチクシ。

こんな中で明日は本番を迎える。そういうわけでいつも以上に現実感が伴わないコンサートではある。「あんよ、じょうじゅ、じょうじゅ、、、」とか言いつつ、オペラのアリアの歌詞を思い浮かべているのだからやれやれでありんす。

目の前の一つ一つを何とか解決して行くという日々の送り方。、、、今年は特別な年になりそうだ。って、毎年そう言ってる様な気もするが、、、。

 

今日の来店客のお一人が、涙ながらに語ってくれた情報によると、何でもアメリカの文学者が日本に永住を決めたらしい。偶然ラジオでそれを聞きながらその方は涙で眼鏡が曇って運転がやばかったと言われる。「どんどん日本から逃げ出す人が多い中で、ホントに有り難いですねえ~」と言葉を詰まらせておられて、こちらもついもらい泣き。

そういう真実味のある暖かいニュースに、今の日本人はみんな過敏な程に反応する。それほどへこんでいるとも言える。こうした中での明日の演奏会に向けて、今回の世話係が当たっている人たちは今までとは違う意味での、「頑張らねば」という想いの中で動いてきただろう。コンサートを何とか意味のあるものにしたい。何とか充実した内容にしたい。何とか元気の出る空気を作りたい。、、、、などなど。彼らのそういう想いがどうぞ裏切られることなく最後まで完走してくれることを、私も心から願わずには居られない。

ここしばらく私は全てのプランニングなどからはずしてもらい担当者に一任してきた。簡単に言えば楽させて貰ったのだが、担当者となった人たちは、そこから何かを学び取ってくれただろうか?人は体験でしか理解できないことがある。そしてその体験がその人を一回り大きくしてくれただろうことに期待したい。一応今回のサロンコンサートで一区切り。次なる目標はいよいよ年末の記念公演だ。

2011年4月29日 (金)

一隅を照らすということ。

「一隅を照らす」という言葉の意味はおのおのが今立たされている立場で精一杯頑張って光り輝くことにより周りの人々を明るく照らす。そして皆のエネルギーになれる。この生き様こそが最高の生き方なのだという教え。

もっと言えば、人間は千差万別で。頭のよい人、才能のある人、力の強い人、勘の鋭い人、器用な人、雄弁な人、歌の上手い人・・・と、そうでない者とがいる。どういう特性、個性を持っているから偉いというわけでもない。要するに、人それぞれ持って生まれたものが違っている。もちろん、努力や訓練で自分の長所を伸ばし、短所を改善していくことはできるけれど、生まれながらに持っているものの領域にまで踏み込んでどうこうすることはできない。人間はみな違う。誰も彼もが一緒である必要はないし、そうもできないのが現実。

もっともっと言えば、バカボンのパパの「それで良いのだ!」となる。

そう思わなければやっていけないものの一つがオペラだろう。みんなが主役というオペラはない。しかし、主役一人でオペラがやれるものでもない。ちぇち程度のオペラであっても、主役は一人でも優に50人以上、時には100人もの人間が協力し合ってこそ一つの舞台が作れる。みんなが自分の持ち場で精一杯の力を出し切ってこそ、お客様に感動して貰える舞台ができあがる。この認識がメンバー一人一人に要求されるというわけだ。

ちぇちも永くやってきて、年末には50回を迎えるが、ひとえにこの思想が全員に行き渡っているかどうかが成功の鍵となるだろう。

 

今日もFMの収録で、矢張り内容は東日本大震災に振れることとなる。その日偶然羽田にいてラウンジで一泊という憂き目にあったSさんがゲストだったが、そこで彼女は感動的な体験をしたようだ。普段から東京というところは人情が薄く、隣の人でさえよく知らないというイメージがあったが、いざというときにはみんなが協力し合えるんだということが分かり嬉しかったという。なんでもみんなで持ち合わせていた食べ物を分け合い、それぞれの身内の安否など気にしながらお互いをいたわり合ったという。

それぞれが出来ることをする。、、、この震災で沢山の人が学んでいるなあ。

2011年4月23日 (土)

今日は雨。

シャンソンの発表会のチラシが試行錯誤の末まあまあに満足出来る物が仕上がった。パソコンと格闘して、取りかかった初日は半日かかった。おそろしく低レベルの技術を駆使して、まあまあ見られる物を作るのは時間との勝負だ。「お兄ちゃんだったらものの10分でやっちゃうわよ!」と、娘にはさんざん馬鹿にされながら、とにもかくにも手探りの独力でやっつけた!終えてみるとこれが随分と楽しい時間だったことに気付く。案外向いているのかも知れないなあ、こういうことやるのが。時間が経つのを全く忘れてやっているのはあと陶芸くらいのものか。矢張り作るという作業が面白いんだろうなあ。

しかし、歌というのは難しいものだ。自分の身体以外媒体となる物を使わないから、その本家本元の状態がもろ表に出る。元気すぎるとこれ又気負いが先に立って安定した声が出ないことになる。誰か信頼できる人にいつも聞いて貰わないと、どんどん悪い方へ変化していても気付かないことが多いやっかいなもの。

でも、本来歌は全ての人のためのものだと思う。基本は楽しむことにあるんだが、本当の喜びを知るためには、やはり訓練が必要となる。そこんとこを伝導しているつもりのアチクシの教室だが、永くなったなあ~。やり始めたら辞められない性格が災いして続いているが、全て「遊び」の範疇だと認識している。「遊び」は本当に大切だ。「真剣に遊ぶ」ことの大切さ。

昨日だったか、仕事をしながらラジオを聞いていたら、オモチャの研究者が出てきて面白いことを言っていた。子供にとって最高のオモチャは母親の目、口、手、足、指その他全ての身体がそうなんだと。例えば子供の手の平に指で字を書いて遊ぶとか、、、。で、早速娘に質問してみた。「子供にとって最高のオモチャは母親の身体のどこだと思う?」と。するとスグに出た答えが、「オッパイ」と来た。「だって、すぐこれで遊ぶんだもん」なるほどねえ。そうくるか。

オッパイといえば乳がんでTという女優が亡くなったというニュースが流れた。好きな女優だったなあ。私よりも10歳若いらしい。しばらくあの潤んだような見張った瞳を思い出すんだろうなあ。

今宵久しぶりに会った同窓生が、自分の娘さんが矢張り乳がんで5年と言われて10年になるという。お孫さんのことも含めて明るくしゃべるのを聞きながら、人はホントに辛い時って必ずしも暗く表現しないんだなあと改めて思ったことだ。あの被災地の避難所の人々を見てもそうだもんなあ~。

でも、「天声人語」だったかで、「笑顔だけどうつろな人々をゆっくりと長い目で見守ってあげて欲しい」と書いていたが、ホントに人間て、内面と外面が違うってことだ。

 

放射能汚染に関する対策の発表が次々と深刻さを増してきている。何とか収束して欲しいと、今は祈るばかりだ。

2011年4月19日 (火)

笑いたい想い。

昨夜はこけ枝師匠とさん喬師匠の「寄席」があった。わがちぇちの会長も中入りのような形で歌われたので頑張って行って来た。頑張らないと出かけて行けないこの頃のアチクシではある。ふ~っ。

それはともかく、唸るほどの「芸」の中で、私は思わずいつになく大笑いしている自分に気がついた。いや、私だけではない。会場のそこかしこで、お腹の底から笑っている人が結構居た。隣には誘った知人が来ていたが、彼女も底抜けの声で笑い、時々ハッと気付いては口に手を当てる場面が。反対側には無理矢理連れて行った母もいたが、こちらも若い人に負けない位の笑い方。

モチロン、お二人の引き込む力が大きいことはそうなんだが、なんだろう?やっぱりここしばらくホントに大笑いってしてないような気がする。この場所では、笑うことが最高の美徳。かしこまったり、お高くとまったりする必要は全く無く、逆に笑えば笑うほど落語家と繋がってより面白い作品ができあがる、、、と、本気で思えた時間だった。しかも、とりを勤めたさん喬師匠は多分予定よりかなり時間オーバーされたような気がする。なので2時間半があっという間だったが、終わって時計を見て慌てた。婿殿が帰るという時間にギリチョンだったのだ。行くときとは打って変わって上機嫌な母と急ぎ帰宅して、速攻彼を送り届けたが、やれやれ。何故か私の日常はこうなってしまう。いくら酉年とはいえ、、、。

 

なんでも奥が深い。というか、さん喬師匠は生きた芸術品だ。昨日の話の中で、そばを50杯食べる人の様子をやったが、まるで口に運ばれるそばが見えているような錯覚を覚えた。しゃべりの間合いといい、まあホントに素晴らしい芸だ。

この方が、冒頭例の低いくぐもった様な声で話しかけた中に、「ねえ皆さん。普通に暮らしましょうよ。、、、普通が一番。」と今の落ち着かない日本を揶揄していたが、この「普通」がなかなかに難しい。車の事故も相変わらずちょくちょく見るが、栃木では小さな子供がクレーン車に突っ込まれて6名も亡くなるという悲惨な事故があったとか。どっか、普通じゃないものが蔓延しているのかもしれないなあ~。

2011年4月17日 (日)

英国王ジョージ六世のSpeech

あれ以来、所謂生活上の「楽しみ」が楽しめなくなっていて、せいぜい一度音楽会に行って癒されたくらいのこと。我が家に居候を決め込んでいる娘親子にかかずらっているせいかどうか、被災者受け入れの気分で落ち着かないことこの上ない。見るテレビも息子の住まう茨城方面の地震に注意するくらいで、後はチビ助の食事時のおこちゃま番組のみ。たださえ忙しいのにリズムも狂いっぱなしでメチャクチャ時間が経つのが早い。

こうした中で、婿殿が数日前からベィビィの誕生日にかけてやってきていて、明日は再び東京へとご帰還の予定。ならば今日しかない!とばかり、「子供を置いて出かけるのは後ろ髪ひかれるなあ~」とつぶやく娘を連れて思い切って映画に行った。「英国王のスピーチ」だったが、この映画、見た人と見たい人合わせると約40人位から勧められていたもので、大いに期待して行った。アカデミー賞も沢山取ったらしいし、主役が大好きな人だったというのもあり久々にワクワクして出かけたもんだ。

が、この手の映画(前評判の良すぎる物)にありがちな期待はずれ。ストーリーが分かっていたというのもその理由の一つだろう。主役以外のキャスティングがちょっとねえ~、という個人的な好みもあったり~、、、とかなんとか言いつつ、見ながら泣いていたおみっちゃん。おいおい。

これが史実に基づいているという点は、確かに現実感があってなるほどと思わせた。事実は小説より奇なり、ってことだ。先日読破したグロッケン先生の訳本「フルトヴェングラー」の中にも登場してきたこの英国王のスピーチは、こうした角度から見ると又新たな感慨を呼ぶ。

幼児期にダメージを受けた精神が、成人してもこの英国王を「吃音症」の苦しみで苛み、その治癒が困難だったが、専門家ではないアドバイザーによって立派なスピーチができるまでになったという、このお話。王家という特殊な環境で起きるありがちなことでもある。どこぞの皇室にもよく似たお話があるではないか。皇族といえども人間。人間の本質をゆがめるようなことをするのは人権侵害に他ならない。、、、一般ピープルに生まれた幸せをつくずく感じるなあ~。

この映画、表面だけを見ると間違いそうな感じもあるなあ。吃音を治すセラピスト、ライオネルはオーストラリア人で当時イギリスの植民地だった国の人。この人と王が生涯の友となったことの意味。ヒトラーが「ラジオ」という電波の力を大いに利用して効果をあげていったという点に、英国王としてスピーチの力に無関心では居られなかったという点。英国史の中に、女性への愛の為に在位をなげうつ人が幾人もいたという史実も興味深い。つい現代にも起きた事件を思い出す。そして、英国と言えばシェイクスピア。ライオネルが実は役者崩れだったということから映画の中にも沢山シェイクスピアの言葉が出てきたが、シェイクスピアを治療の、あるときは自身の子供の教育に道具として使ったというシーンも面白かった。

まあだから、期待はずれだった、なんて書いたが、見て良かった映画の一つではあったのだ。特にこういう心が弱っているときには、優しい映画として、多くの人の共感を呼んだことだろう。後世まで残る映画かどうかは別として、、、。

 

それにしても、地震が多いなあ~。ホントに余震なんだろうか。地震予知のブログなんてのもあると人が教えてくれたが、予知されてもその情報をどう生かせるか、、、。「心配」の二文字が心から離れることがない。

2011年4月 6日 (水)

それなら私にも出来る。

車でベィビィのお買い物に出かけているとき、ラジオから刻々と流れてくる被災地の様子などを聞いていたが、その中でかろうじて被災を免れた酒造会社の人が、「皆さん、日本全国の人たちが被災者や被災地を思ってくれて、花見や春の色んなイベントを自粛しようというムードになってきているのはある意味ありがたいですが、実は私どもはそうではなくて、どんどんお花見もやって頂きたいのです。そして、東北の酒や食品をどんどん買って頂きたいのです。経済が止まると、二次災害が起きることとなります。どうか、皆さんのお力で、東北の経済を立て直す為にご協力をお願いしたいのです。」と、殆ど絶叫に近い声で強いメッセージを流す人が居た。それに応える形での別な人からのメッセージに、「それなら私にも出来ます!何をどうして良いか分からなかったけど、そういうことならスグにも出来ます!」というものがあり、これには多くの人が共鳴したようだ。

確かにそうだ。我が小さな店にも、福島から送られて来ているものがあり、つい先日まで意識的にそれらを販売するようなことはしてこなかったが、少しでも協力できればと来る人毎に紹介を始めたところ。これを聞いてますますそうしようと想いを新にした。スーパーに並ぶ食材も、敢えて東北の物を選ぶことにした。小さなことだが、これが全国規模となると、けっこうな力になるのかも知れない。

それにしても、今日も今日とて魚に放射能汚染があると報告された。野菜といい牛乳といい、まもなく茨城に一時帰っていく息子の家族は、これからの生活でどれほどの不自由を克服しなくてはならないのだろう。

同じ茨城に住む娘婿の両親に陣中見舞いを送ったが、心配した遅配もなく、スムーズに届いた由一安心。「身体にお気を付けて元気で頑張って下さい!」と励ましたが、電話の向こうは涙声だったような気がするなあ。きっといつか笑顔で再会出来ると信じて挨拶を交わして電話を切ったが、心労を思うと、、、、。

 

それにしても深夜のNHKでは、今も上下水道が快復していない地域を紹介し、問題の解決法を探っていたが、このままではあまりの非衛生的な環境で、伝染病が爆発的に広がるという。蛇口をひねれば自然にでると思っている「水」。ここにきて日本人は大きな意識改革を必要とされるかも知れない。

2011年4月 3日 (日)

黙って語る演奏会。

なんとしても行く!と娘に宣言して2時間の自由時間を得てホールへと出かけた。久しぶりのピアノの演奏会。明らかに私も音楽に飢えていた。が、到着したのは第1曲目が始まったところ。中には入れずロビーでしばし聴くこととなった。外は晴れていて穏やかな海を船が航行している。静かに景色を眺めながらシューベルトを聴く。マイクを通していても豊かな音が胸に流れ込む。やがて中に入ると、すぐさま知人に会い「おや」「あら」と声を掛け合うこととなる。どこに座ろうかとキョロキョロしていると友人Kが手招きしてくれて、隣に座る。1曲目で既に彼女は感動している様子。休憩の15分で出る話題は矢張り震災のこと。毎日テレビを見て泣かない日はないわねと話し合い、いくつかのエピソードの交換となる。中でも彼女が見た読売新聞の幼い子供の写真の話しには参った。帰宅して娘に話して又一緒に泣いた程だった。きっとこういう話しは他にもいっぱいあるだろうなあ。

演奏は、Kさんが言うように確かにとても良かった。ゆるぎない技術もさることながら素晴らしい集中力はSさんがまさしく円熟期に入ったと思われた。ホール内で座席で聴くフォーレも情感に溢れ音楽の中へ中へと誘われた。プログラム最後にサックス二人との競演があり、楽しんだ後はアンコール。クラシカルな演奏形態をとっていて、全くの解説無し、プログラム発表無し、演奏者のコメント無し、、、、そう、無言の中で、粛々と演奏は続けられた。そのアンコールの一番最後に持って来たのが、「オーバーザレインボー」で、これには思わず涙が溢れた。このように音楽が言葉を媒体とせずに雄弁に語りかけるのも珍しいのではないだろうか。演奏家達も、聴衆も、この曲で心が一つになった気がする。あちこちからすすり泣きの声も聴かれ、大きな拍手の中、感動的な舞台は終わった。

こういう時代にこうしてやるべき事に精一杯取り組むことが、被災しなかった人々の出来ることだと思われる。日立市発信のオペラネットワークを飛び交うメールも、今こそ日本を元気にするべくみんなで頑張ろうという内容のものが多い。思えば、一番最初にオペラフォーラムに参加したときの基調講演をされたある学者の方が、「人間にとって大変困ったときに救いになるのは、やはり目に見えない芸術的なことである。」と言われたことを思い出す。

手探りでやってきた事を、今年の暮れには実りあるものにするべく頑張っているちぇちだが、この事態は大きな試練であり、又逆に大いなるものからの後押し、かも知れない。今こそ音楽の守護聖人ちぇちぃりぁの名に恥じない音楽活動をやって行かなくてはならないだろう。

、、、せっかく良い演奏会だったにもかかわらず、シメがサッパリ。というのも、車まで帰ったが何故か駐車券が無い。一度精算機の側まで行ったのに又引き返して本腰で探していると警備のおっちゃんがやってきて、「どうかなさいましたか?」と親切に訊いてくれる。チケットを探していると言ったらしばらく待ってくれて、それでもないと分かると、すぐさま書類にサインして入退場時間を書いてくれてちょん。どうやらこの手のことには慣れていらっしゃる。今日だけではないかも知れないが、一覧表には結構な数の人がサインしていたなあ~。やれやれ。慌てると碌な事がない今日この頃ではある。

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