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2011年3月

2011年3月31日 (木)

書けない日々。

この数日の忙しさは筆舌に尽くしがたい。普段自分の母親にシビアな娘も、流石に、「お母さんってホントに分刻みねえ」と呆れられた。あまりのことに友人からの電話に、「頭がおかしくなりそ~!」と叫んでしまった。彼女はゲラゲラ笑って、「身体だけはこわさないでよ~」と言ってくれる。いやホント。以前東京で倒れたときの恐怖が甦ってくる。このところ耳鳴りがひどいときがあるし、今日は右膝が鉛のように重くて痛い。せっかくかなり良くなっていたのに逆戻りしてるのかも知れない。とにかくさっきも整理していた物の中からA4の一覧表が出てきて、それが自分の血圧表だとわかるまで時間がかかったくらいで、そんなものを付けていたことさえすっかり忘れていた。ということはやっぱり病は気からってことか。忙しいときは血圧のことなんか全く気にしてないんだから我ながらおかしい。

いやほんとに、血圧を測る暇もない。

その多忙の原因の一つに、ある助成関連のあれこれがあり、昨日はそのシメとしての面接があったのだ。作成して持ち込んだDVD4分と5分の説明と5分の質疑応答で終わりなんだが、11人の審査員の前で慣れないことをやる自体、かなり疲れた。事前に打ち合わせもし、準備もしていたはずが、本番では2,3割程度しか言いたいことが言えない感じ。いやはやいやはや。ま、やるだけやったのだから、結果はどうなろうと仕方がない。M会長と書類作成係のMさんが一緒だったが、私より数段若くても相当疲れたようだった!私が疲れるのはあたりまえ。

 

何度か公演時に参加してくれているダンスグループの女性が神奈川県から子供を連れて帰ったようで、道中電車の中が女子供ばかりだったというから今の世の中の動きが分かる。うちのお嬢も旦那を一人東京に、一体いつまでこちらに居るのやら。さっぱり予測が付かない感じ。イコール、我が家に巣作りが必要で、あれやこれやとやっている。それはいいが、親子ならではのケンカもしょっちゅう。息子がいるときは緩衝剤になってくれて、「今は子供中心なんだから好きにやらせといたら?」とアドバイスしてくれる。が、ホントに価値観が違い、衛生観念が違い衝突ばかりしている。こんな親子の間で、チビ助はどんどんこちらになついてきて、可愛さが増してきているが、この子の未来はどうなるんだろう?と考えてしまう。11ヶ月前こちらで生まれた子が、まさか1歳のお誕生日をこちらで迎えることになろうとは、誰も考えなかったことだ。

その誕生日には東京から父親も参加するようだ。「家族一緒」このささやかな願いが叶えられない被災者の方々のことを思って、真剣に幸せを求め生きていって欲しいものだ。

2011年3月28日 (月)

Tさんからの便り。

仙台で被災にあった元ちぇちのメンバーTさんからメールが来た。生々しい報告に、又その災難のなかにあっての彼女のたくましい生き方過ごし方に感動した。

「3月11日、仙台市内の自宅で震災にあい、 一週間の避難生活の後、18日、19日の二日間かけて、 両親が住んでいる地にもどりました。 脱水や風邪の症状がでていましたが、 健康に大きな問題なく無事です。雪が降る中、 電気も水もガスもなく、研究室の留学生を連れての避難でした。 私の部屋や研究室では、落ちたり壊れたりした物もありますが、 建物が倒壊するような被害はありませんでした。また、 私の周囲では人災もなかったので本当に幸運でした。 昼夜関係なく震度4、5の地震が続く上に、 福島の原発問題が重なり、不安な毎日でしたが、少しでも食べて、 少しでも寝て、ボランティアをして、自分のできる事をしました。
大学の復興は震災直後からはじまっています。 地震や原発問題がまだ終わったわけではありませんが、 自分のすべきことをするため、 3月29日に再び食料を持って仙台に戻る予定です。
未来に目を向けてがんばって行きます。」

 

こうしためげない若い人たちのお陰で、彼の地に光がさしていくんだろう。

 

ちぇちの公演では、試行錯誤しながら大きな役に体当たりでぶつかっていったTさんの根性を思い出す。あのころ培ったものも、きっと今後の彼女を助けることだろう。頑張れ!私たちのヒロイン!

2011年3月27日 (日)

深夜の病院。

風邪引きの孫べえを連れて、深夜の救急保健センターへと出かける。昨日今日と各2回ずつ嘔吐し、下痢もあったからだが、熱は無い。元気も良い。食欲もある。が、何もかも初めての親たちはどうしても病院へ連れて行きたいというので、あまり気乗りはしなかったが連れて行った。予想通り待合はおでこにヒエピタを貼って赤い顔をした子供連れの親達でいっぱい。何故か子供は夜になると調子が悪くなるんだ。

本人達を外の車で待たして、ババは待合で順番を待つ。これ以上別の病気を貰いたくないからだったが、効果があったかどうか?

こうして小さい子を守っている親たちを見るに付け、今更ながら我が母親に感謝だ。何しろ台湾から生まれてまだ3ヶ月の私を連れて帰ってきてくれたんだから有り難い。赤ん坊は抱いていても、例えばコンクリートに落としただけで命が無くなるかも知れない危うい存在。それを、落としもせず、病気からも守り、はるばる日本まで連れ帰ってくれたという事実に、ホントに今更ながら感謝感謝。

近頃我が家にはず~っと赤ん坊がいて、色々考えさせられる。観察しているとその成長に目を見張る。持って生まれた人間の本性にも驚くことが多い。自我が少しずつ芽生えてきているのも面白い。

 

かなり待ってようやく見て貰えたが、案の定心配はないらしい。薬も用心のために出してくれた感がある。ふ~っ。ま、良かった。

 

自分自身の風邪が少し良くなって、ようやく仕事を始めたが、来店客は当然のことながら東日本の大震災のあれこれを話題にする。殆どがテレビからの情報で、みんながテレビに相変わらずかじりついているのが分かる。そういう私自身があの嫌な番組にとっつかまって、午前3時だったかそれ以上だったかつい見てしまった。「、、、討論会」内容は殆ど「放射能安全説」を強調するというものだった。「放射能で死者が出ているわけではない。」というのがその主張だったが、ホントにそう思ってて良いのだろうか?わからない。政治家や学者、色んな人を議論に招き、あの○○右衛門もいた。が、結局は何も払拭できないまま番組が終わった感がある。、、、そして今日はまたぞろNHKのニュースで新しい数値が示されいっそうもやもや感が増したという次第。

一つ分かったことがある。若い人たちにとっての原発は、只の原発。電力を供給できるという機能を持った優秀な道具に過ぎないということ。我々世代は、その原発に原爆を重ねる人が多いのではないか。我々には長くその後遺症に悩んできた被爆者の声など、聞くチャンスが多かったと思う。日本に投下されたあの原爆がどういう物だったか、かなりの人が関心を持ち、この想いを後世に伝え続けなくては、と想いを紡いで来たはずだ。ところが、今若い世代の人にとっての原爆は我々が若い頃と比べてどうだろう?しっかり伝わっているだろうか?

この番組で、全員が一致した意見は、「これは日本の事故ではない。世界の事故だ。」という主張。一応良識アルトされる人々の出した唯一の共通認識だった。

ところで、知人の外資系の外国人達はこぞって日本を脱出しているという。そこに何が見えるだろう?

明日は我が家にカナダ人の友人が来泊する。彼に色々聞いてみよう。何かが分かるかも知れない。彼は熱海に大きな邸宅を構え、優雅に過ごしているが、はてさて、、、。

2011年3月26日 (土)

復興の声高く。

あれから2週間経ったのだが、我が家では「なんだか殆ど時間が経ってないように思うね」という会話。帰省中の娘は、「被災地に居ないのにこんなに気持ちがしんどいんだから、あの人達はどんなだろうねえ」としみじみと言う。確かに、日本列島はどんよりした雲に覆われている感がある。

しかし、テレビではあちこちで「復興」の声が聞かれるようになった。そこに登場してくる人々は、365日働いてきた人々。就職が決まっていたのに、それを辞めて、郷里の復興に捧げたいという若者もいた。涙ぐみながらも、「少しずつですが、、、」と復興への意欲を見せる中年の女性も居る。まるで、間もなく来る春に向けて地下で芽を出す準備をしているかのようだ。

そう、春は必ずやってくる。同じように人々は再び地上に花を咲かせるに違いない。阪神淡路がそうであったように。規模はあの時とは随分違うが、それだけに人々の復興への願望と再生への力が大きいのではないだろうか。

「日本人を信じます。」とは諸外国の人々のユーチューブでのメッセージに一番多い言葉だ。どんな逆境にあっても必ず甦ることが出来る希有な民族として、彼らは賞賛してくれている。そうかも知れない。いやそうなんだろう。営々と築きあげてきた日本人としての大切なものは、今ここにきて最も力を発揮するのかも知れない。

 

それにしても原発に関しては、資本主義がもたらしたつけが今になって回ってきたわけで、その「恩恵」を受け続け、生活が膨れあがった人々はここにきていきなり昔の生活に戻れと言われて大いに戸惑いうろたえているのも当たり前。関東ですっかり停電の生活が定着した親戚の若い人は、「こんどの事で、自分達の生活が見直せて、停電も良いかな?と思っています。」とあった。なんでも太陽と同じに起きて寝てを始めているらしい。それしか方法が無いからだが、、、、。確かに、悪いことの裏には良いことが、良いことの裏には悪いことがアル。

 

原発事故で身を挺して働いている人たちはホントに痛ましい。だが、万に一つはこういう事が起きるということは、ホントに想定外だったのだろうか?その万に一つを思って、原発建設に反対した人々はどんなにか無念の思いを抱いていることだろう。おそらくは賛成した人だろうある男性が、テレビですっかり肩を落として、「国に裏切られた」と呟いていたのが印象的だった。

人は、自分で作った物で傷つくように出来ているのか。放射能しかり、農薬や食品添加物しかり、副作用のある薬品や予防接種しかり、はたまた車など。他の動物には無い性癖のように思われる。

 

今年ほど、春が待たれる年はない。

2011年3月24日 (木)

それぞれの被災、それぞれの希望。

我が家に避難して貰っていた高知の一人暮らしのOさんは無事ひとまずご自宅へ戻られ、電話の声もまだ風邪声のこちらを励まして下さるほどに。モチロン、今後のことは誰にも分からない。ある特殊な住宅事情の為、地震には東京のご家族も随分と心配されているようだが、前々からもし山で遭難しても私を探さないでと言い渡す程の方だから、ご本人は至って元気。ホントに見習いたいものだ。

 

水戸の息子達家族も何とか帰省出来てひとまず安心だが、手放しでは喜べない。建設中の自宅はどういうことになるのだろう?水戸は永住を考えるほどの良い土地柄で、ママ友もいるそうだし、それらの縁が今後どうなっていくのか、、、、。今はとりあえず元気な子供達に救われている。

県内外から我が子供達の事を心配して連絡を貰っているが、みんな想いは同じ。所謂被災地に近いところに居る人たちがどうなのか、連絡を取るのが怖いという心理。今のところは全ての縁ある人が無事だと確認は出来た。取引のある福島の会社も昨日の電話で、「社員全員無事です。会社も何とか続けていきます。」ということで大いにホッとした。が、宅配便が届かず、しばらくは不自由な状態となるとのこと。ただ、電話の明るい女性の声にこちらが救われた。こちらの方が、頑張って下さい、と言うのがやっとだったが、、、。

千葉の友人は、妙に元気に返信してきて、私はもう年だから良いのよ。などという。覚悟が出来てるというのだが、、、。同じく千葉の小さい子供を抱えた人からは、正確な情報を得て、パニクらないように過ごしたいと言って来た。みんな不自由な中でしっかり考え、何とか前を向いて生きていこうとしている。ホントに素晴らしい。

仙台の元ちぇちの会員も一人は郷里へ避難、一人は研究室を再開したようだ。

 

テレビを見過ぎて病気になっている人も多いと言うが、確かにあれは見続けると、どこまでも見届けなくては、という思いに駆られる。こういうことから目を背けるべきでないという想いもある。そして何れ我が身とか、何も出来ない無力感にとらわれて、神経がやられるのだろう。大いに分かる。その意味では日本人は全て被災者かもしれない。

、、、なんとかしなくては、なんとかしたい、という想いがふつふつと湧いてきている今、色んな所が動きだした。チャリティーコンサートの案内や出演依頼、オペラ協会が助け合うという知らせも届く。一人一人の力は極く小さい物でも、集まればそれなりの力を持ってくるだろう。我らが弱小の団体も何かをするときが来たようだ。

 

テレビ画面に出てくる中学生の男の子が、「人間は一人では生きられないということを知りました。」とハッキリした口調で話したのに涙したが、若い人の率直な言葉の中に完成された人生哲学が感じられる。試練というには余りに厳しいが、人はこういう時にも「学ぶ」ことが出来るんだと感動した。

2011年3月17日 (木)

大震災。不安のまっただ中!

今日も何人の涙をテレビでみたことだろう!?何人の叫びを聞いたことだろう!?そして又、何人の絶望と怒りを!!

日本中が暗澹としている中で、私も小さな無力な存在の自分をひしひしと感じている。茨城の息子の家族が毎日余震におびえ、刻々と状況を知らされながら殆ど何も出来ない!電話が通じるようになり、ひたすら息子に、「早く帰れ!」「家族を守れ!」と連呼するのみ。教え子の事を無視も出来ず、仕事とのはざまで苦しんでいる息子に、かける言葉のあまりの少なさに我ながら歯がゆいばかり。でも、なんとしても帰って欲しい。電話の側でキャッキャット戯れている孫達の声を聞くと、居ても立っても居られない。、、、この毎日の連続で、遂に私は風邪でダウン。モチロン、娘親子の受け入れや、高知から我が家に避難してきた83歳の友人の受け入れも、この見かけよりひ弱なわが身体に負担を強いてはいただろうが、それよりは精神的な不安の方がひどい。毎日テレビの警報にビクビクし、放射能の数値に目をこらす日々。頭がおかしくなりそうだ。

遂にこのような私から、友人Oさんにはホテルへと疎開して貰った。年齢が年齢だから、風邪で肺炎にでもなられるとそれも怖いからだ。

車で移動中も必ずラジオをつけるが、殆どのアナウンサーは涙声で、それをぐっと堪えながらの放送に、こちらも胸が詰まる思いがする。が、ラジオは良いなあ。ホッとする。避難所でつらい日々を過ごしている人たちも、このラジオという媒体で社会と繋がっている。溢れる思いをメールに託し、それを読み上げるアナウンサー。又それを聞いた被災者でない人からの温かい言葉のメールやFAX。あるとき、その中でキース・ジャレットのピアノが流れたり所謂「普通の音楽」が聞こえてきたのには心底ホッとした。きっと多くの人がつかの間癒されたことだろう。

 

こうした中で、ちぇちの仕事も次々とやってくる。今年の公演がホントにやれるのかどうか、と思いを巡らしていると、今日は日立市のオペラネットワークから全国のオペラ団体当てにメールが届く。日立も相当やられているようだが、驚いたことに随分と前向きな内容だった

「オペラという総合共同作業に携わっている皆様の前向きな姿勢やバイタリティーが、きっと全国的に必要とされているのではないでしょうか。皆様の明るさやパワーは、復興に向けた活力剤になると信じております。」

このメールを被災地から出せるという事に人間の底力を感じる。又ある高松の演奏家から、チャリティー演奏会をこの19日に早速やるとの連絡が!素晴らしい。それぞれがやれることを探し、わずかでも前に進もうとしている。こうしたパワーが寄り集まって、人々は又生きていけるんだ。人間て、本来優しい動物なんだ。

たった今優しい人からもう一通メールが届いた。イギリスの友人だ。そうとう心配してくれていて、みんな家族はしばらく高松に居なさいとかいてある。高松が完全に安心とは言えないが、今のところはということだ。神奈川の友人に、もしもの時は何とかなるから逃げてきて!と電話したが、ホントにこれからどうなって行くんだろう。

 

ちぇちの会員だった人も、グロッケン先生のご両親もみんな無事だと聞いて安堵してはいるが、他の人々のことは全く知らない。中には同窓生や、縁のあった人々が被災しているかも知れない。縁があろうが無かろうが、あのおびただしい人の死亡情報には暗澹とするしかない。

2011年3月 8日 (火)

ああ、現実。

お嬢が10ヶ月の子供と共に帰省すると、最初に聞いたときは期待に胸がときめき、生まれた瞬間を思い浮かべ、涙すら浮かんだし、実際会えばきっと泣くだろうと思っていた。

が、しかし。現実はそんなに甘いものではなかった。このブログを開く間もない忙しさ。というか、その気力が湧かない程のエネルギーの消耗。「お母さん!」と叫ぶお嬢の声に振り回され、「よくまあそれほどお母さんと言えるわねえ!」と叫び返すと、敵も然る者。「お母さんと呼びまくる為に帰ったんじゃないの!?」と来る。こうなったら笑うしかない。やれやれ。

それにしても昨今の子育ての衛生観念はすさまじい。毎日ケンカばかりしている。「そんなの神経過敏じゃないの?」と言うと、「お母さんは私のようにお医者さんに行って話しを聞いたり、保健所で講習を受けたりしたの?」と来る。「私が長い間かけて勉強して、試行錯誤の末やっていることを簡単に否定しないで欲しいわ!!」だ~って。そりゃそうだ。そう言われればすっかたなかんべさ~。やれやれ。

てえことは、嫁りんもホントは随分こうしたことが言いたかったのかも知れないなあ。遠慮があって、言いたいことが言えず、可哀想なことをしたかもしれないなあ。こちらからも何かを言うことは無かったようには思うが、、、。やれやれ。

 

こうした娘親子の世話係以外に、平行してやらねばならないことが容赦なくやってくる。ある書類の作成なんかもその一つ。以前、「捨てるような時間を使わないと出来ないことがある。」と前会長に言われたことを思い出しつつ、頑張って作文し、計算し、、、疲れた。

今宵のちぇちの練習では、それを優秀な頭脳の寄せ合いで完成することが出来てようやくホッとした。一つ一つやっつけていかなくてはならないのだ。

そう、間もなくやってくる春の音楽祭に向けての「立ち稽古」にも今夜初めて着手した。若い男性が沢山応援に参加してくれることとなり、俄然活気づいたちぇち練。久々にみんなが心からの大笑いをしているのを見てこちらも楽しくなった。やっぱりこうでなくっちゃあ~。

寒いロビーで居残っての打ち合わせがなんとか終わりかけたとき、お嬢からまだ帰らないのかとの電話がかかる。お風呂の時間があまり遅くならないようにとのお達しだ。はいはい。分かりましたがなと急ぎ帰宅。速攻でお風呂に3人で入り、母親の着替える間湯殿で抱っこ。最初の3日間はこれが出来なかったが、ようやく大丈夫になってお互い慣れてきたのを感じる。が、慣れた頃又別れなくてはならないなあ~。あと10日ほど、この幸せを満喫させて頂くとしよう。

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