瀬戸内海に小波が立っていた。
相変わらず送り迎えして頂きながら、あくまで予定をこなすが、流石に今日は1個だけ。その1個とは、 グロッケン先生がティンパニーを担当している交響楽団の演奏会であった。夫に送って貰ったために、時間よりも2時間以上早く着き、 瀬戸内海が見えるレストランでコーヒーだ。ケッコウ人が入っていて、コーヒーだけが気が引けたが時間つぶしをさせてもらった。風が強く、 海は波が立ち、晴れてはいたが冬景色といった感じだった。
「北欧の、、」と銘打ってシベリウスとグリークに絞っての演奏会は熱演と工夫の特盛りで楽しかった。 久しぶりにグロッケンせんせいの雄姿を拝見したが、真剣な表情はいつものにこやかなお顔とは全然違って、 当然ながらりりしくてもう根っからの演奏家であった。あの沢山の棒は何のためかまたお聞きしたいものだ。もしや汗をかくからか? それとも当たりがそれぞれ違うから?、、、偶然にも私が座った場所は、2階席の一番前で、先生のまっすぐ前だった。 多分舞台からは私は見えなかったと思うが、いやあ、なかなか堪能させて貰った(何を?)
今日の一番お目当ては「グリークのピアノ協奏曲」であったが、最初からピアノにおっとっとの場面があったものの、 聞き慣れた音楽に浸り気持ちが良かった。気持ちが良すぎてちょいと一瞬眠った様な気がしないでもないが、、、。 ピアノというのは不思議な楽器だ。弾く人によって色も量も全部が違うんだ。
指揮者はH氏で二期会のオペラに賛助出演したときに振ってくれた方だったが、相変わらずスマートで、 長身を豊かに巡らせながらダンディな振り方をしていたなあ。あのオペラの時に、楽団を指導してどんどん音楽を作っていく様子を見ていて、 指揮者の仕事というものを目の当たりに見せて貰ったが今回もきっとそうだったんだろう、と思わせた。それぞれの力の入り方が凄かった。 一部管楽器にムムム、、、というところもあったが、以前よりは良かったと思うし、 全体のパッションとメリハリが観客を音楽の世界に引っ張り込んだ。それに矢張り北欧の音楽の素晴らしさもあった。、、、 この交響楽団の演奏会が以前より観客が少ないのは、ご時世だろうか?座席が無いくらいの時もあるんだけどなあ~。 (何処へ行っても入りを見てしまうなあ~)
ところで、今朝ワイドショーかな?のコメンテーターが、メディアで初めて私と同じ意見の人がいて次のように話していたのを聞いて、 その通り!と膝を打った。もっとも他にも同じ意見の人は居るのかも知れないが、私が余りテレビを見ないから知らないだけかも。 その女性は言う。「人間は人という動物の基本的な能力をどんどん無くしている。昔はこの食べものが食べられるかどうか?なんてこと、 目と鼻と舌でチャンと判断できていたのだ。それを、人様の作った画一的な数字でしか判断できないのはおかしいではないか?」と。 昨今のニュースをにぎわしている表示偽装の問題の本質を考えるとき、これを考えないといけないのではないか?ということだ。まあ、 ここまで来てしまった表示基準を全て無くしてしまう事には不安があるが、今でも私は自分の判断で処理していることが多々ある。 ところが娘がたまに帰省して冷蔵庫を見てはドンドン捨ててしまうので、そこでいざこざが起きることがある。昔昔、 戦後の物の無い時代を経験している私にとってみれば、少々大丈夫という自信があるから、そんな経験のない娘と衝突してしまうのだ。しかし、 奇妙なことに、我が母親も、娘と同調するんだなあ、これが。まあ、母の価値観は殆どの人と同じでバブル期に大部分捨ててしまったんだろうが、 、。私に言わせれば例えば牛乳は賞味期限が過ぎていても味が変わっていなければ熱を通して使えるし、 豆腐なんて物も賞味期限に関係なく使えるんだ。腐敗したら臭いや色、味が変化して分かるんだし、表示はかなりの安全圏だと知っている。まあ、 それでも出来るだけ新鮮な物を使用するようには心がけているが、やたら捨ててしまうという風潮には同感しかねる。
それと同様に論じられていたのが、「便利になって、無くした物がたくさんある。」ということだ。例えば、 列車が速くなって窓が開けられない。汽車の窓から外の空気を吸うこともなく、 駅弁をドキドキしながら窓から身を乗り出して買うこともなくなった。まあ、この番組は他にも多々あるこの手のことを話し合っていたのだが、 こんなのそれが当たり前の若い人が聞いても何の感情も湧かないだろうなあ、と悲観的な思いで聞いていたものだ。
時代は変わる。
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