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2007年2月 5日 (月)

「詩」というもの。

冴ゆる空三日月の先は尖りゐて女に手頃な刃のやうだ take

 上記の短歌を読んだ人はどう思うのだろうか?多くの人は何を感じるのだろうか?私はこれを最初に読んだとき、 身内をぞくぞくっとしたものが走ったのを思い出す。まず来るのが「美しさ」だ。そしてそこに「女の香り」を感じる。届かぬ「月」 をどう描こうと、それは所詮イマジネーションの世界の事だ。うつしみの事を生々しく描くよりも、現実味は無いが、 だからこそ秘められた心模様が、ある魅力を持って読む人に迫ってくる。こんな事考える女性と付き合ってみたいと、、、 そう思う男性は多いのか少ないのか?私が男なら、その女らしさと可愛らしさにとろけるけどなあ~。ご本人の承諾を得て、ここに記載したのは、 このところ、「詩」というものをつくづく考えているからだ。

 昼間のシャンソン教室で、それぞれの歌を聴きながら、「上手い歌」とはどういう歌だろう?「良い歌」とは? と考えながら指導していて、「詩」が如何に「生活」から遊離して独特の世界を持っているか、ということに想いが至った。たとえば、 「あ~なた~の燃える手で、あたし~を抱きしめて~、、、」という「愛の賛歌」。日常語としてなら全ての「~」は取ってしゃべるだろう。 そこにリズムが付くということは、それが「詩」であるということだ。「雪が降る、、、、、、、。あなたは来ない、、、、、、。」という曲も、 この「間」というものに「詩」が感じられなくては、音楽の魂が消えてしまう。要するに、語られない部分にこそ、大切なものがあるのが「詩」 なのだ。聴く人のイマジネーションを掻き立てるのが上手い歌で、良い歌なのではないか? 歌い手が描く世界に聴く人も入って行けなければそれはただの「歌」だ。もう一度あの短歌を見てみよう。

 

 冴ゆる空三日月の先は尖りゐて女に手頃な刃のやうだ take

 

 リズムといい、表現といい、短歌の基本を踏襲しつつ新鮮で、、、そう、思わせぶりでもある。ついニヤリとしてしまう。4. 5句の表現は実に「お見事!」

 いつになったらこんなのが作れるようになるのか、、、。ほとんどの芸術と同じで、先天性の「感性」の量が問題だ。

 

 声楽の個人レッスンの中で、I先生がよく言われる事。「S・Hさん。僕はあなたにリズムだ音程だ発声だということは教えられるが、 どうしても教えられないものがある。それは歌心、と呼べるものかも知れない。あなたにはそれが最初から備わっている。」そうなのだ。 彼女にはホントに歌心がある。聴く人を惹きつける力がある。しかし、それもレッスンの中でこそ磨かれてきたと思う。、、、てえことは、 短歌だって、作り続けて居るうちに何とかなるかも知れない。、、、かな?

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