昨日、今日、、。
昨日の疲れかと思いきや、どうもこの雨でむち打ちが出ているらしい。だるいだるい、、、。しかし、 予定は待ってくれなくて、今夜も濃密な時間だった。オペラの中の二重唱の振り付けをやった。4月のイベントの為だ。 イタリア語で以前やったところが、その時は何も感じなかったことが日本語になると途端に気がかりになる。簡単に言うと 「曲の中に妙な間を感じてしまう」のだ。日本語であるというだけで、言葉が重要な意味を持ち端々まで気になってくる。 イタリア語だったときは、イタリア人なら当然感じたであろう、たとえば語尾やイントネーション、 アクセント的な要素があんまり気にならなかったのだ。それら全てが音楽の中に融和して、全体が音楽と感じられた。ところが、 日本語にした途端、つながらない。何かしら音楽が切れてしまう。言葉の意味を考えることで一層切れる。、、、これを何とか、 出来るだけ音楽にしなくてはイケナイ。動きをつけながら、こりゃあ~大変だあ~~と、改めて、、、、グググ。
今朝は昨日のシャンソン発表会に来て下さった方々から色々お電話を頂く。ケッコウ楽しんでくれたみたいだ。 音楽が親しみやすいというのもあるだろう。うんと若い人は居ないから、昔懐かしいと思う方も多いらしい。出演者もそれぞれに楽しんだようだ。
我々が若い頃は、歌声喫茶ってものがそこかしこにあり、気が向けばみんなで歌いに出かけたものだ。 今のカラオケみたいにグループだけで楽しむのではなく、そこに来ている知らない人の歌も聴くことになる。 全員で新しい歌を歌ったりが一世を風靡した時代があった。今度はそれに近い物をやってみようと思う。ま、皆さん一緒に遊びましょ! ってことだ。今度はカルチャーセンターが移転の予定で、映画館の上になるらしい。こりゃあ~、良かったのか悪かったのか? 一度始めたら止めない私のこの性格。シャンソンも長くなったなあ。
その前に生涯学習で「シェイクスピア」の講座を受講。その後の昼食会では恒例の私の司会なので、ホントはいつも控えめにしているが、 この日ばかりは疑問が渦を巻いてどうしても黙っていられなくなって、講師先生と丁々発止やってしまった。「ハムレット」 の中のクローディアスが祈ろうとして跪いた時にハムレットがドアの陰からそれを見て、 祈りを捧げている者を殺しては魂が天国に行ってしまうから、という理由で殺すのを断念する、という場面。 クローディアスはそれより前に自分は悪いことをしているがそのために心が晴れることがない、と独白し、神に謝罪すれば許されるかも、、 と跪くのだが、直ぐに「心が伴っていない言葉は天に届かない」と立ち上がる。彼はその時はハムレットから偶然にも殺されずに済むが、 その後も次々と悪行を重ねていく。
講師は言う。「クローディアスは野心と情欲の犠牲者であり、救いようのない哀れな人間である。」「 「如何に彼が深い罪の意識を持っていようと、同情を買うだけのことである。」、、、この、「同情を買う」 という点に私はどうにも納得できなかったのだ。
私は、クローディアスのような悪人が、例え自分の犯した罪の重さにうめいても、それに同情は出来ない。 松本清張の書く主人公達のように、悪事の前にそうせざるを得ない理由があるというのでもなく、ただの欲望を満たすためだけの悪事である。 その人物が、神に縋ろうとするなんて全く陳腐でさえある。いやむしろ神を引き合いに出したこと自体が、特に許せないと思うのだ。 そりゃあ直ぐにそれが自分の悪事に値しないことだと悟ったとしても、それがどうしたの?ってことだ。一瞬にしても神を、 自分の重い心を少しでも軽くして貰える道具のごとく扱ったのだ。しかも改心するでなく、暗い心のままに再び悪の道を邁進するのだから、 同情の余地があるとは思えない。だからむしろ、この場面を見ている観客がクローディアスに憎しみの感情を持つという意味で、 この場面はかなり重いものがあるのではないか。ますますハムレットに同情していくのが健全な観客の見方というものではないのか?
昔から日本には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が在るのを知っているが、講師はそういうことを言いたいのか?まあ、 確かにハムレットの死を前に言う最後の言葉「あとは沈黙。」という言葉はその様にも解釈できるだろう。でもなあ~~~。まあ、確かに難しい、 ハムレットは。
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