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2006年11月25日 (土)

いじめ。

 このところ、随分マスコミやなんかでいじめが話題になっている。おそらく1ヶ月も経たない内に又ぞろ別な話題にアリのように集るやからだろうに、取りあえず今のところはこの話題で持ちきりだ。その影響たるや、日々の当店の来客の話題にも顕著に表れている。今日も今日とて、小学校の先生が来られたのもあり、その話題が一番比重が重かったなあ。一番心配になったのは、以前はもの凄く教職を愛して、楽しげな先生だったのが、この所、ストレスが多くて、スポーツジムさえ行きたくない、行けないという状態らしいこと。所謂お上からの「指令」によてって、学校のトップが動かされ、一戦の兵士達が、自分の考えとは違う方向へと強制されていくというストレスに加え、子供の親たちからの圧力。これは、相当先生方を苦しめているようだ。

 昨日の爆笑問題の番組で、「いじめを無くすスローガンを無くそう」というマニフェストが可決(?)されたが、この結論が出るまでの過程は、なかなかに面白かった。
 そのスローガンの為に、全てのいじめが地下に潜ってしまい、その結果、対処出来ない所まで行ってしまい、対策が遅れる、という点。それと、いじめは人間らしさの表れであり、いじめられる人は、他の人より個性が強く、その個性を無くそうとするようなスローガンはそれ自体ナンセンスなのだ、という意見。弱い子に強くなれと言っても、それは無理だし、弱い子を弱いまま認め、「弱くても良いんだよ」という世の中を作るべき。ということなど、それぞれ説得力があった。
 確かに、人間には「差別感」はあるし、その結果「いじめの感情」も生まれる。その、いじめる側の人間にも、「いじめ」は色んな事を教える。

 昔、中学生の頃、私のクラスに、とても性格のひねくれた女の子がいた。誰彼かまわず、クラスメイトの悪口を、在ること無いこと言いふらす。今思えば、家庭に問題があった子だった。ある日、私と友人がたまたまテストの時にその子のカンニングペーパーを拾った。これは良いチャンスとばかり、それを息せき切って担任のK先生に持って行き、先生に罰して欲しいと頼んだものだ。そうすることで、きっと彼女も反省して、人に優しくなるだろう、という正義感からだった。
 ところが、それから何日経っても、K先生は一向に彼女を呼び出す風でもなく、授業に来ても何事もなかったかのように振る舞う。私とその友人とは、我慢しきれずK先生に抗議に出かけた。「先生、なんであの事をみんなの前で言うとか、あの人を呼び出して注意するとかしてくれないんですか!?」と詰め寄ったのだ。ところがその先生は「そんなことはどっちでも良い。先生に任せたんだろう!?それよりお前達は自分達の勉強のことを考えろ!」と一喝されてちょん。納得は出来なかったものの、二人ともどこかで、ホッとしていたのも事実。それ以来、その事はいつの間にか消えてしまったが、今想い出すと、あのK先生は良い先生だった。もしあの時、我々の言う通りに先生が動いていたら、瞬間は溜飲が下りただろうが、きっと後で苦々しい思いがしたことだろう。もしかしたら、一生その事が自分の汚点として記憶されたかも知れない。、、、だから、思うのだ。いじめてる子達だって、それなりに学習しているんだと。
 わが子がいじめにあっていた事も想い出すが、それだって、子供達の性格の形成上必要だったのではないかと思える。いじめは大人社会にも必ずあるのだから、、、。
 では、一体何が大切なのか。それは一番は家庭ではないか、と私は思う。豊かな愛情の中で、子供達を守り抜くのは家庭だと思う。「生きる」ことの大変さも素晴らしさも、家庭で教えるべきではないか。確かに学校も無関係ではないだろうが、先生には限界がある。我が家でたった二人の子供達を見守るのも大変だったのに、40人もいる子供達に目を配り、同じようにやれというのは酷な気がする。
 たまたま、あとから店にやって来た友人とその話をしたが、彼女の意見も、「家庭だと思う。」の一言だった。だからこそ、結婚は大切で、作った家庭は責任を持って子育てをすべきなのだ、と意見が一致した。親の子殺しや虐待なんてことが頻繁に起きる世の中は完全に狂ってるとしか言いようがない。、、、ああ、憂えるなあ〜。

 

 

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