いくつかの不思議。
今日はシェイクスピアの講座で「ロミオとジュリエット」のビデオを見て、鳴いてしまった。いや、泣いてしまった!ハハハ。
後の昼食会で、「私年のせいで、全然泣けなくなった自分が寂しいです」って言う人が居て、自分が泣いたとは言えなかったが、オリビア・ハッセーが好演していて、見るのも2回目だのに、つい、ほろっとしたのだ。もともと泣き虫なので、何を見てもすぐ泣くんだが、、、、。
昼食会で話題になったのは、というか私が問題にしたのは、「名前」についてだった。「ロミオロミオどうして貴男はロミオなの?」という台詞から、「バラはバラという名前でなくても、美しさに変わりはない」という説があるのだが、そう簡単に割り切れないのが名前というものの不思議だと思ったのだ。
それで想い出すのが、ある友人がその母親から改名を勧められたと私に打ち明けた時、単に感覚的なことから私は「そんなの嫌だわ。私ならしない。」と返事をし、私の意見のせいではないだろうが、彼は改名しなかった。ところが、その後の彼の人生は目も当てられない程で、娘は10代で自殺。奥さんも3年後には死亡。本人も会社を退職する羽目に。転職したものの、ことごとくうまく行かず、、、、まあ、今は再婚もして何とか落ち着いているように見えるが、何となく、スムーズでない人生だ。彼の動向を知るたびにどっか胸の一部が痛むのだ。あれは、母親のカンというものだったのか、、、、って、今もその類のことはどうも信じられないのだが、、、。これも不思議な話。
私は今短歌でペンネームを使っているが、この頃ようやくその名前で呼ばれても違和感が無くなってきた。実在した人物のお名前を一部拝借して、若くして亡くなったその人の人生をバトンタッチするように使わせて貰っているのだ。しかしケッコウその名前が気に入っている。その人の事が好きだったからかも知れない。その方とは1年ほどの付き合いだったし、遠い人だったから、もしこの名前を使わなければ、私の人生で最も遠い人として記憶されるに過ぎなかったと思うが、こうして年中書く、打つ、聞く、口にすることで、最も近い人となってきた。不思議な感覚だ。
ところで、今日の講義では、この作品が「運命悲劇」か「性格悲劇か」ということが 中心的なテーマの一つだったのだが、若者にありがちな性急さを描ききっている為、性格悲劇的な要素が強いと思われがち。しかし、悪人が一人もいないこの作品は、運命そのものを「悪人」として一貫させている点、矢張り「運命悲劇」だろう。「名前」というものも運命だろうし、、、。でも、運命なんて、ホントにあるのかなあ?そういえば、身近に運命論者が居たなあ〜。しょっちゅう占いどころに通っているらしい。そうやって、ゆだねるというのも、あるいは良いかも知れないなあ。
ちぇちの練習で、今夜はS嬢が空振りし、Mさんが代打し、そもそも私が交通整理をしているというのも、全て運命か。
今日はある方で、先日の魔笛に出演された方が、感想を聞いてこられて、小一時間ばかり、かなり根掘り葉掘りほじくり出されたので、本音も喋ってしまったが、流石この方は歌に向かう姿勢が違う、と感心した。何とかして、おべっかでなく、ホントの事が知りたいという熱い思いに、頭が下がると同時に、こうやって、伸びていく人とそうでない人の差が出るんだろうと納得した。声というのは、自分では計れないし、観客として自分を見ることはあり得ないわけで、客観的な感想を聞かない限り、自分のホントの姿はわかり得ないのだ。しかし、キャリアを積むに従い、そういうことから遠ざかっていくのも人間だ。ある有名な歌手も「私もこの頃では誰にもホントのことを言って貰えなくなった。何がつらいって、そこなんだ」と言う。そうでしょうとも。プロと言われる殆どの人が、いつ足を踏み外すか分からないという不安の中で孤独な道を茨の道に変えて歩いていくしかないのだ。それは神に選ばれた人として、当然の道なんだろう。だから、今日聞いてこられた方はホントに凄いと思ったのだ。真の意味で、自分の成長を願っている人なのだ。この方からはホントに多くのことを学ばせてもらうなあ。
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