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2005年10月16日 (日)

変換。

 今日の短歌例会でも話題になったが、パソコンの文字変換で、いろんなミスが起きている。目で確認したつもりが、間違いをも正しく読んでしまうので、ミスがそのまま通ってしまう。早い話がこの日記。後で読み返してみると、その日の体調などでひどい変換をそのままに見過ごしている場合がある。打ちっ放し、書きっぱなしだから、当人は間違えてるとは思っていない。時間が経って読んでみると思わず吹き出す間違いはケッコウたくさんある。もっとひどいのになると笑いどころか、意味不明なんてものもある。その時の気持ち自体覚えてないというわけだ。
この、変換間違いによくやるのが、別に変換は必要ないのに、「クセ」で、変換キーを押してしまうという場合もある。私の場合はかなり多いかも。早打ちを目指していて、兎に角早く打ちたいので、指に覚えさせているというのもある。、、、ま、いずれにしても、時代とともに原稿の間違い字というのも、変わってきてることだろう。知人で、校正のとても上手な人が居るが、醒めた目を持って居るんだろうなあ。

 朝たった一人着物を着付けただけで、再起不能なくらい疲れ切って、午後の短歌歌会に行くべきかどうか迷っていたらKさんからお誘いの電話が。瞬時にそれに乗って思い切りよく出かけてみた。どうせ家にいてもただ寝るだけだから、少々頭の体操でもしてみようと思ったのだ。確かに頭の体操にはなったなあ。、、しかし、「歌」と名が付くからにはそこに「心」がなくては、頭で考えるだけでは完成しないだろう。自由詩の種田山頭火、萩原井泉水のように、文字を越えた表現、というか、形に囚われない(イヤ、囚われても良いが)ともかく「表現」が欲しい。「言葉」によって、切り取るのではなく、その向こうに感じさせたい、感じたい、、。
山頭火に「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし」
なんてのがあったなあ。今日はKさんが「わたくし」という語が使いたくて作ったと自作の歌の事を話していたが、「わたくし」、奥の深い言葉だ。この言葉を日常で使う友人が居て、いつも「良いなあ」と思いながら聞いている。
山頭火の歌には
「まっすぐな道でさみしい」なんて、どうしようもない強烈なインパクトで迫り来るのもある。彼のようには生きられないが、心の奇跡を辿ることはしたいものだ。

 

 

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