老人劇団かあ、、、。
60歳以上の高齢者だけの劇団が高松に生まれたというのは聞いていたが、実際に観たのは初めて。母を伴い出かけたのだが、道中、「貴方も60歳過ぎたら入団させて上げるわよ、と言われた」と母に言い、「もしかしたらおばあちゃんの方が入りたいかもネエ」と喋りながら行ったのだ。しかし母は帰りがけ偉そうに「もうちょっとすっきりした劇ならええけど、アレではネエ、、」なんぞとほざくので、あたしゃ別にこの劇団に義理はないんだけど「いやいや、あれだけのことやるのも大変なのよおばあちゃん。自分勝手に喋るんじゃなくて、台本を覚えてその通り喋るんだからね!」と弁護。しかし母はまだまだ言いつのり、「第一あの長い間がどうしようもなくいらいらした」だって!「あのねえ、あれだけ覚えてチャンとしたタイミングで喋るのは大変なのよ!そりゃあ忘れて出てこないことだってあるわよ」とこれ又弁護。しかし、私がどう言おうと、面白くないモノは面白くない母だった!
これが仮にも舞台に立っている人と、そうでない人の感想の違いなんだろう。しかし、考えてみると母の方が正しいのかも知れない。いや、きっとそうだろう。観客がお金払って見に行くのは、何も出演者の側に立って同情したりするために行くのではなく、純粋に楽しみたいが為。その出演者達が例え子供だろうと大人だろうと老人だろうと若者だろうと、面白いモノは面白いし、面白くないモノは面白くないのだ。
もう一つ、我が母は老人意識が薄い人のため、この劇団が老人劇団とうたっていることが気にくわないようだ。
私としては、主宰者の思想をプログラムで読んで、成る程確かに老人向けの演劇は少ないだろうなあと思い、老人の老人による老人のための演劇に拍手をしたつもりだった。が、彼がこの芝居をあの「寅さん」を例に出して論じていたのは、いささか疑問が、、、。寅さんがあれだけ世の中に浸透し好感度を得たのは、彼、渥美清の演技力であり、キャラクターであり、作品の質だった。方向性だけではあれだけの評価は得られなかっただろう。だから映画演劇は難しいのだ。訓練し訓練し又訓練しての結果が舞台に乗るんだ。
結局その訓練の集大成が舞台であり、観客は決して自分には出来ないというレベルの技術を楽しむのではないか。
しかし、今夜私は大いに泣いた。それは何故か?それは盛り込まれたテーマに同感の感情だった。例えば、「高齢の主人が入院したためボケが来て、ベッドに縛り付けられ睡眠薬まで与えられてあっという間に亡くなった」というエピソードや、「アル中の息子の家庭内暴力から家族を守るために殺してしまった父親」の話しなどが語られるとき涙したのだ。一生懸命なその語り口は私が見慣れたプロの俳優のそれとは違い、近所のおじさんおばさんのものだった。それが妙にそそるのは、演出の意図するところだったのか。
この劇団、名古屋の地球博に出演が決まったそうな。げんばれ!って、何故か言っちゃうなあ。カンパもしちゃったよ〜。
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