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2003年8月

2003年8月31日 (日)

欲求不満。

 今日もやっぱりやっぱり遅れてきたMariさんのすっぴん集合写真も見ものだが、ついに私のイヤな合唱の練習が始まった。のびのびと自由に声を出していたのが、突然規制が始まった。ピアノはピアノらしく、、、、と普通の合唱で言われるようなことを言われる。本番ではどうなるか分からないそうだが、グランドホールなんだもん。ちゃんと声ださせて欲しいなあ。やれやれ、本番に望みをかけるしかないなあ。完全な欲求不満である。
 ところで、なんであのお方は本日2時間も遅刻したのか、、、、「起きたら1時半だったのよ」って、あんた!練習は1時からだっつうの!すっぴんで慌ただしく来たのは良いが、あとで聞けば、ちゃ〜んと、ご飯は食べてきたそうな。あたしゃ朝も早からお仕事しいの、家事をしいの、んでもって尚かつフェリー乗り場までなっちゃんをお迎えに行って参加したのに、だから、昼食は抜きなのに!なんで、私は太って彼女は太らないのだ!神様はいつも不公平。
 
 

 

 

2003年8月30日 (土)

幸せなんて、簡単なモンだった。

 今朝は早くから又しても遅れてきたMariさんを罰として、後部座席の真ん中に乗せて、一路高知へ、須崎へ、、、と高速に乗るやいなや、「あら左よ」「イヤ右だわよ」「そんなあ、徳島は左でしょ!?」「え?今日は高知よ!」てなことから始まった。5人中二人までが今日は徳島に行くと思っていたことが判明。やれやれ、先が思いやられるといいつつ、晴れ晴れとした夏の終わりの空の下、気持ちよく2時間ほど走る。いなか〜の町須崎に忽然と現れた文化会館。本日のホールである。900席程度ながら、この町にとってはひょっとして一番の大きなホール?すっっぴんの小濱さんを訪ねてから、まずはここにしか無いという「鍋焼きラーメン」で昼食を。この暑いのに長蛇の列、とまでは行かないが、かなりの人が待っている。こりゃあ待てないと悟った私は、その辺を探索に出かける。これがあとで思いがけず役に立った。およそ30分も歩いた頃に、Mariさんからもう順番ですヨオと連絡が。店に戻ると、超ご機嫌斜めのI先生。「このクソ暑いのに、こんなに待たされて、地獄だ」とのたまう。しかも、ようやく出てきたラーメンが先生の大嫌いな鳥入りだった!きゃっ、し〜らないっと!と内心思うも、あえてそれは口にせず、おいしいおいしいと汗をかきながら食べる。猫舌の私は口の中が一皮むけるほどの熱さ。そもそも、出前中にさめないための工夫だったとか。さもありなん。
 で、差し入れのお菓子を買うためにさっき歩いた中央商店街のお菓子屋さんに立ち寄ると、試食したおまんじゅうがと〜〜〜ってもおいしい。オバタリアンが4人揃えば怖いモノはない。その辺のを全部試食させてもらう。余りに安くておいしかったあるおまんじゅうは我々が全部買い占めた。Mさんなんかは今度からこの辺に来たら必ず寄るとまで言っている。いやほんとにおいしかった。
で、肝心のオペラであるが、兎に角驚いたのは客席のこと。一番良い席から全部中学生が埋めている。学校教育の一環らしかったが、本物のオペラを最初から見せるなんざあ、須崎の人達はなかなか凄い。蝶々さんが15歳というのを彼らはどう思っただろう。、、、上演中少しざわついたが、最終幕のピンカートンが白人のお嫁さんと現れる当たりからは、水を打ったようにし〜んとなる。その静寂の中を、小濱さんは歌いきった!絶唱と呼べるだろう。あちらこちらからすすり泣きが洩れる中カーテンコールとなる。素晴らしい演技力と歌唱力に、少年少女達も感動したことだろう。この年齢で、これを見たことが、のちのちなんらかの影響をその子達の人生に与えるだろう。
帰りは高知で夕食をということになり、I先生のたっての願い「兎に角待ちたくない」というのを目標に今度は普通道を走る。勝手の分からない町で、偶然は入ったパーキングを下に降りると、そこは「ひろめ市場」という大変ユニークな食堂街。広場の真ん中が粗末なテーブルと椅子だけだが一応食堂。食べるものは周辺の魚屋さんやお肉屋さんお寿司屋さんなんかから買ってきて自由に食べる。この形が気に入った私達は食べること食べること!でも、兎に角安い。帰りは運転しなくて良いと、待たないで食べられることに大変ご満悦の先生が言ってくれたので、アチクシは生中をお代わりする。良い気分で、帰りは平均120キロでぶっ飛ばす。(I先生は中年暴走族なのだ)
車中でマリアカラスを聴きつつ、後部座席のニワトリが良い舞台を見たあとの興奮で歌うように叫ぶ(叫ぶように歌う?)のを必死で押さえるも、かなわず!舞台の余韻はどこへやら。ら。ら。
最後は諦めて、高速を降りてから新しい喫茶店へ。これが又いける珈琲だったし、トッピング付きのソフトクリームのおいしかったこと!なんて幸せな一日!
要するに、良い音楽を聴いて(出来れば歌)おいしいモノを食べられて、気の置けない仲間とピーチクパーチクおしゃべりが出来て、大音量で笑えて、時には文学の話しもしいの、ちょびっと人の悪口も言いの、、、、この本日のような時間こそが幸せだったんだ!、、、なんて簡単!
 とはいえ、疲れた。

 

 

2003年8月29日 (金)

ショック!

 ふと気が付くと免許証がない。知らないで3日くらいは乗っていた。明日は高知まで我が愛車で5人乗ってのお出かけ。なのに私の免許証が無くちゃあ、話しになんない。と思って、探すは探すは、ありとあらゆる可能性のあるところを3回通り探したが、無い!これは無いかも知れないと、諦めかけたとき、はっと思い当たったのは、お風呂。外出から帰ったら、私が飲んでないから送れと言われて、主人と息子を乗せてぽかぽか温泉へ。その時、小銭と免許証しか持たず、だからして、お風呂グッズの入ったバッグにそれを入れてあったのだ。ウ・ウ・ウ・グヤジ〜。2時間近くかけて探しまわったあの労力はなんだったのか!
 しかし、この間それに思い至らなかったのは、ショック!だんだん、脳がおかしくなってくる。M先生におすがりしなくてはいけなくなるかも、、、。ああ、ショックショック!
 で、明日はこんな私に命預けて良いのかなあ?みんな!ハラホレハ。

 

 

2003年8月28日 (木)

わんわん物語。

 さぬき市で複数の犬が女性に噛み付いて指を食いちぎったと、全国版のニュースである。被害者は、どんなにか怖ろしかったことだろう。飼い主が今まで人を噛んだことはないとか、散歩に連れて行ってるとか、嘘八百並べ立てていたが、そこの犬はみんな痩せていて、ホントに可哀想。40匹だとか買ってるらしいが、食費も大変だろうから、なおざりになってしまうんだろ。
全く、これは犬の虐待だ。
 母と息子をホームセンターに連れて行ったとき、隅にある動物やさんに見物に行く。私達も元来動物好きで、いつも何かは飼っていたから、つい足がそこに向いてしまうのだ。その環境の中で、生きる術を見つけてじゃれ合っているのもいれば、呆然としてなすこともなく動かないのもいる。あるいは自分の運命を悠然と受け入れて、周囲には見向きもせず、毅然と佇んでいるのもいる。あれ、そういえば、ここの動物達は余り、人間達に反応しないなあ。つい声を出して、わんわんとか、にゃあにゃあとか言って手を出す我々に、殆ど見向きもしない。連れてこられてすぐの時は、救いの手を求めたかも知れないが、それが如何に無駄かというのを知ってしまったのか。
 我々夫婦は、全然意見が合わない。私が犬を飼いたい時は、主人は反対する。主人が飼おうか、と言うときは、散歩のことを考えると、やっぱりよそうと私が言う。最愛のチャッピーが亡くなってからは、結局今まで15年ほど飼えないで居るのだ。今のところホームセンターのわんちゃんや、Mariさん宅、HM姉妹宅で時たま見て触れて我慢している状態。さて、いつになったら飼えるようになるだろう?冒頭の飼い主のようにはなりたくないから、きっとうんと先になるだろうなあ。

 

 

2003年8月27日 (水)

久米さんがお辞めになるとか、、、。

 ニュースステーションという、言いたい放題、ある意味勇気のある番組の中心人物の降板である。私の見る限り、多少の幼稚さも彼のキャラで許されて、筑紫さんと違うガキ大将的な面白さが売りだったと思うこの番組。この一件で又、あるいち時代の終わりを感じる。「十二分にやった」と自分自身が言うことに多少の抵抗を感じもしたが、まあ確かに、ニュースをこんなに面白く身近にしたという意味に置いて功績は大だろう。何より、彼の記者会見で驚いたのは、急に白髪が増えたことである。それに似つかわしい会見の内容。「突然頭が真っ白になり、何を喋るべきだったかが分からなくなることがままあった。」と言う。
確かにここ何年か、呂律が回らない、と言うほどではないが、少しおかしいくらいの滑舌の悪さは感じていた。とっとちゃんとの掛け合いで、信頼から来るののしり合いを繰り広げていた頃は、切れの良い、回転の速い素晴らしい話芸だった。比較すると私でも自ずと彼の言う「老い」に気付かずにはいられない。
 人は老いる。例外なく死が訪れるように例外なく老人となる。多くの人はそれを世間に発表などせず、静かに老いと向き合うか受け入れるのだが、彼はホントに気の毒。目が心なしか潤んでいたなあ。
 ところで今日はとみっぺというパソコンの申し子みたいなおぼっちゃまに短歌の新聞の発行のノウハウをご指導頂く。まあ私はダブルブッキングしちゃった会に出る必要があったので、すぐに無罪放免とさせて頂くが、機械とはホントに凄いモノ。美しいモノになるだろう。うまく行けば。
 駆けつけたのは同窓生の市会議員を励ます会。まるで同窓会みたいな顔ぶれ。兎に角世の中を良くして欲しいモノ。、、、しかしなあ、、、。

 

 

2003年8月26日 (火)

会食。

又か。と言われそうだが、仕方ない。自分の意志ではない。息子が帰省しているのを弟夫婦が歓待してくれるというのだ。むげに断れないではないか。食事の準備から逃れられるとはいえ、つい食べ過ぎるんだなあこれが。、、、で、ただ今と〜ても苦しい。眠いのと、満腹で耐え難い状態。明日見たらひどい誤字だらけなんだろうなあ。

 

 

2003年8月25日 (月)

♪う〜みは、暗いなあ不気味だなあ〜♪

 何回か友情出演してくれたM女史が目のヘルペスで入院てことで急遽岡山まで、大学病院までお見舞いに!思ったより早い回復にホットするも、まだ痛々しいお顔。幸い視力の衰えは今のところ無いようだが、随分痛い思いをされたようだった。ず〜っと以前胸にヘルペスが出て、三日三晩うなり続けた経験があるが、あの痛さったら、お産よりひどかったかも知れない。(、、我ながら、なんでも経験してるなあ。)病院の廊下に後ろ姿があの先生にとっても似てる方が歩いてらしたが、まさかね。フェリー乗り場からずっと送り迎えしてくれたKさんにはホントに感謝感激。それにしても、こんなに遠いところから高松まで練習に通ってきてくれて居るんだと思うと、そのありがたさを再認識した。この労力を仇やおろそかには出来ない。
 帰りのフェリーは真っ暗な海を見ながらの一人旅となった。時折暗い空に雷光が走る。白い波を立てながら静かに進む船。風に当たると塩が肌にべっとりと付いた感じ。でも、クーラーの効きすぎた客室に入る気がしない。海を眺めていると、ボール箱が漂い、その上に羽を休めるカモメが一羽。ほんの1,2分で飛び立ったが、目的があるようではない。彼はこのだだっ広い海をいつまで跳び続けるのだろう。そういえばカモメって海に浮かぶことが出来るのかなあ。でないとやっぱり疲れるだろうなあ。、、、てな事を考えながら1時間があっという間だった。船旅も良いモンだ。
 

 

 

2003年8月24日 (日)

オケ合わせと披露宴!

 案の定遅れてきたMariさんに乗せて貰って遅れてリハーサル室に入ると、1幕は始まっていたが、出番は未だだった。やれやれと、オーケストラの後ろに。こんなに近くで聴いたのは初めて。永年オーケストラのメンバーの人達がどんな思いで、何が魅力でその他大勢の一人で参加しているのか疑問だったが、ようやく分かった。もし私が楽器が出来たら、やっぱりオーケストラの一員になりたいと思うだろう。たくさんの音の流れに身を浸し、共に揺れたり泣いたり歌ったり、大音量の中で泳ぐのは得も言われぬ快感のように思えた。そして又、この音に合わせて歌うことの気持ちよさ。「同じアホなら踊らにゃそんそん」てこと。ホントにちぇちが全員出ても勉強になったし楽しかっただろうなあ。
 休憩の間にトンズラ。次の目的地全日空ホテルへ。トイレで着替えてエレベーターを探しているとネクタイを手に持った会長のお出まし。ようやく結び終えて21回の会場へ。すると、居る居る、某局アナウンサーK君が、本日の司会者なんだ。まあ彼の司会ぶりの型破りなこと。応援団ののりか?!飲み物のサービスが行き届きすぎていて、あっという間に酔っぱらう。なのに以外と早い歌の順番。指名されて二重唱を歌ったが、歌詞を間違えないかと内心冷や冷や。まあ無事終わりふと考えると、これはひょっとして私に喋らせない為の陰謀か?結局最後まで彼らのことを喋る時間は回ってこなかった。幸か不幸か?モチロン彼らにとっては幸だろう。フフフ。
何はともあれ、一つ終了。
 私が酔っぱらってる間、なっちゃんとMariさんはショッピングしたり、ソフトクリームに感激したりしてたらしい。偶然近くにいたMariさんが再び我が家に送ってくれた。てことで、本日も、過密スケジュールの一切が終わる。

 

 

2003年8月23日 (土)

感動した!

 どこぞの大臣ではないが、今日のトスカの練習は、感動した。久しぶりに、心が感じて激しく動いたのだ。そのもっとも大きな理由は、音楽監督の田口浩輔氏の出現である。まだまだ日本を代表するテノールとして、活躍中のあこがれの方で、舞台は何度か拝見したが、実際に指導を受けたことも、その風景すらも見たことがなかった。噂は聞いていたが、矢張り自分の耳で聞き、自分の目で見るのは最高!田口先生から、ほんの少し的確な指導を受けるだけで、まるで見違えるような声を出すコーラス。ソリストの集団のように声を出せと言われる。こんなにのびのびとした、やり甲斐のあるコーラスなら、大いに出演したいもの。ソリスト達も十二分に声の競演である。その訓練された声を聴きつつ自分もしっかり声を出せるのは、欲求不満にもならず、ただ幸せ。ん〜ん、オペラだ!明日は初めてのオーケストラとの合わせ。なんて幸せ。グロッケン氏ともお目にかかれるだろう。もうお里帰りは終わったのかな?こんなチャンスを頂いたT先生に感謝したいところだが、ナンとぎっくり腰で入院されちゃったとか。お気の毒。スカルピアにあんまり似合わないなあ。フフフ。
 さて、夕べは余りの「感動不足」で、短歌どころではない状況だったが、ちゃ〜んと救い主が現れ、アドバイスをして下さる。これを元にこれから、ちったあましな短歌を作るべえ。今日の感動が、少しは反映されるだろう。
 明日は、Sくんの結婚披露宴。トスカの練習と重なってるんだなあこれが。やれやれ。

 

 

2003年8月22日 (金)

こんなんで良いのかしら?

 短歌の締めきりである。朝から仕事の合間にちびりちびりと創り、ようやく今仕上げた。ただ今午前様。しかし、自分で見ても情けない出来映え。なんだか、水が干上がった春日川のようで、みずみずしい言葉も、情景も、言いたいことさえ浮かばない。どうしたことか。ただ創る事に意味はあるのか?いくらいい加減な性格といえども、ちったあ認められるようなモノを詠みたいではないか。いや、別に大先生に認められなくても良い。自分で納得がいくモノを詠みたいもの。こんな、締めきりがあるからそれだけのために創るのはどうかと思う。が、締めきりがなければ多分とっくに止めてるだろう。だから締めきりは絶対必要さんだ。
 さ、寝よう。明日は早くからお客様だ。

 

 

2003年8月21日 (木)

ここに一杯書いたのが消えた。

先ほど長々と書いた日記が消えた。内容がMariさんに関するモノだったから、さては呪いか?くわばらくわばら。今日はやめとこおっと!
京都から、機嫌良く帰ってらっしゃい!

 

 

2003年8月20日 (水)

愛称。

 32歳の我が息子を「お兄ちゃん」と呼ぶことがある。母親として幼い頃から怒るときは名前で呼び、普段はお兄ちゃんで済ませてきたが、さすがに大学以降は極力名前で呼ぶことにしている。それでも時々「お兄ちゃん」が出るのは、まあ、くせみたいなモノである。娘は当然今も昔も「お兄ちゃん」である。時々アンタというのが聞こえるが、お説教するときも(強い妹なのだ)愛情を込めて「お兄ちゃん」と呼んでいる。上下関係が逆転しているのをこれで中和してるのかも。
ところが、ナンにも考えずに、いついかなる時も「お兄ちゃん」と呼ぶ彼の父親に、ついに切れた我が息子。人前では絶対にその呼び方はするな!とカンカン。「いつまで経ってもおまえは可愛い息子なんだから、、」と弱々しく反論する父親。その様子を見ていて、息子の成長が微笑ましく、父親の老いが寒かった。
 私は孫に絶対「みっちゃん」と呼ばせるつもり。呼ばれ方によって、人格が変わるような気がする。、、、、いつになったら孫に名前を呼んで貰えるんだか。やれやれ。

 

 

2003年8月19日 (火)

なかまたち。

 朝からコマネズミのように(見てくれではない)動き回るとさすがにちょいお疲れで、10分ほど仮眠。息子がその様子を見ていて「うへ〜っ。便利な身体。たったそんだけ寝たら快復するんかあ」と感心しきり。そうよ、あんたの母はこうやって子育てもやってきたのよ、と言わなかったが、まさしくそういうこと。30年前の私を知る人は「あの頃ほんとに良く働いてたわねえ。脇目もふらず生きてたわねえ」とのたまう。その通り。新米の主婦は、ただひたすら必死でやるしかなかったのだ。毎日おみそ汁の具の相性を母親に電話してご教授頂き、料理の本と首っ引きで真剣に料理を研究していた。(!)今夜急に食事の仲間に加わった新婚の彼にその話をして、おおらかに見てあげてと言うと「イヤ、僕は、こだわりませんから。彼女がやりたいと思えばやるでしょうし、別に無理して貰うこともないので、全部外食でも構いません。」と言われる。は〜っ。今時の若い人って良いなあ。てなことで、今日の仲間達の夕餉は盛り上がった。ららちゃんが初めて我が家に登場。せかこのMariさんとは真反対のららちゃんは、想像通りの人。みんなががやがやしてる中で、まるでミズスマシのようにスイスイと旋回している。初めて会った人達が、10年来の知古のようにうち解けているのは、愉快愉快。午後、H/M姉妹がレッスン後に、些細なことでケンカしてたが、Mariさんとららちゃんも全くつまんないことで言い争いに!これが兄弟姉妹の良いところだよなあ。なんでも言いたい放題。で、傷つかない。今怒ったかと思うとすぐべたべた。、、、ちぇちのみんなもこんな風に兄弟づきあいが出来ればいいなあ。、、、無理か。
でも、相手によるなあ。S君には結構ずけずけ言えるんだよなあ。ナンカ知らないけど前世の因縁かなあ?(無い無いって声が聞こえる)
 
 

 

 

2003年8月18日 (月)

時間が足りない。

 半日は家族サービス。そして、急遽FMの収録二本録り。お招きしたのは今回のオペラ「トスカ」の主役お二人、トスカとスカルピア。多忙な中をお越し頂き、公演の宣伝をして頂く。印象的だったのは、悪役のスカルピアの役作りを、随分研究されているらしいT先生。「悪人は自分が悪をしているとは思ってない。やりたい事をやってその結果に自信を持っているだけ。」とおっしゃる。なかなか深い。この作品は文学的に見ても大変興味深いモノがある。恋人を助けるために、命がけで友情を守ろうとしている恋人を裏切り、かれの友人の居場所を悪徳警視総監スカルピアに教えてしまうというあたり、このトスカの究極の選択をどう見るか、人によって意見が分かれるところだろう。、、、こうして話しは盛り上がり、2回分の収録がスムーズに終わった。
 大分遅刻してしまったが、ちぇちの練習に出かける。ホフマン物語、クリスマスバージョンである。久しぶりにA君が参加。彼はトスカにも参加を決めたようで、良かった。
歌の上達は、兎に角本物の声をたくさん聴くことだ。今回トスカに参加の人達は私を含めて大変ラッキー。ちゃんとしたベルカントがソバで聴けるんだから。
 帰りを待ちかねていた主人と息子にせがまれて我が家は今夜も銭湯である。

 

 

2003年8月17日 (日)

今日は楽しかった。

 朝の6時にお嬢のご帰還で駅まで車を飛ばす。さすがに眠かったが、無事を確認する娘の声を聞いて又一眠り。電話で起こされて一仕事してから、トスカの練習に。今日はソリスト達の素晴らしい声に囲まれての練習。初めての経験だが、「美しい豊かな声のシャワー」を浴びながらの練習は、ホントに幸せだった。声ってなんて魅力があるんだろう。ちゃんとした発声のたっぷりした声が私の身内に迫り、目がくらんだ。流石グッチの会のメンバー。ベルカントの素晴らしさを大いに示してくれる。その声に触発されて、自分自身も本気になって歌ってしまった。これは思いがけない体験ができそう。劇団タイムステップの連中も、演技で参加してくれるが、きっと「歌」「声」というものに新しい概念を持つことになるだろう。私達を誘ってくれたT先生は、東京からの指揮者やコレペティには絶対逆らわない。この縦のシステムが守られてこその舞台の成功だろうが、我慢が居るなあ。自我を捨てて、プライドさえも捨てなくてはならない。その点我々は気楽。兎に角自分の守備範囲を守っていれば良いのだから。、、、今日は演出助手の女性が指導をしていたが、この人も又、演出家の前では思いっきり従順なんだろう。言葉の端々に出ている。10年前の市政100周年記念事業のミュージカルを思い出した。あの時も、村田大さんという偉大な演出家に付いていた数人のアシスタントは全員チリチリしていたなあ。ボロッカスに叱られても、はいはいはいと素直に聞き、口返事さえ出来てなかった。ああ、舞台の人って凄いなあ、と感心したモノだった。思えば、あの光景を見て娘がその道に進んだんだった。良いものを見せたモンだ。あの厳しさを見て、そこに我が身を置こうと決心したのが長続きした理由かも知れない。11月に東京でやる芝居は「姑を殺す嫁」の話しだそうだ。

 海を渡って練習に来ているKさんをフェリー乗り場まで送って行く途中で、バッタリと来週末結婚式の披露宴をやるSご夫妻と司会をやるK君に会う。ちぇちの引力は凄い、と訳の分からないことを言い合いながら面白いうどん屋さんへ行こうと話しがすぐ決まる。「釜たま」を食べたらおいしかった。目的は果たせなかったが、果たせるまでK君は通い詰めるそうな。フフフ。あんたも好きねえ。(ちょっとここには書けない目的)

 遅めの夕食は息子を交えて3人。娘が1匹居なくなってものすごく、静か!、、、と思いきや、じゃんじゃん電話。「おばあちゃんに電話して!なんかお昼は元気がなかったから」「もう電話した?も〜っ!早くして!」「今日は一人なんやから、お風呂で浮かんように気を付けてあげて!」とうるさいうるさい。やれやれ。電話すると確かに弟夫婦達は奈良へお出かけ。一人ではあった。だれにも邪魔されずの〜んびりテレビ見てるそうな。たまの自由は良いモンだそうだ。孫の心おばば知らず、、、か。

 

 

2003年8月16日 (土)

どうせあたしゃふやけてますう!

 本日は短歌の「歌会」と「懇親会」であった。昼食でビールをきこしめした主催者は、いつもにもまして饒舌であった。しかも、もっとも害のない私に向けて発散した。曰く「みっちゃん日記を読むと、食べて飲んでお風呂に入ったって、そればっかり。どうりで、ふやけて当たり前よ」だって!ふんっ、どうせあたしゃふやけてますよおだ!
 別にそう言われたからってヤケになったわけではない。帰宅したらババと息子とが温泉に行こうと待ちかまえていたのだ。カラオケ帰りの私を娘が迎えに来てくれて、その足できららへ。結構混んでいた。午前0時でも。

 ところで、短歌を詠む、短歌の評をするというのは、その人物が出るモノ。ということは、孤独に作歌しているわけでなく歌会に参加の会員は、相互理解が必要だろうし、いやむしろ、理解出来なくとも許容出来なくては会が成立しないだろう。その点この会は和気藹々、3年過ぎて、今後はどういう方向へと変遷を遂げるのか?あるいは変わらないのか?興味深いことではある。

 実はこの懇親会の途中に、県民ホールであった「トスカ」の練習にもちゃんと出席した。こわ〜いという噂の指揮者は、やっぱりこわ〜かった。
思ったより人数が少なくて、、、本番はもっと増えるんだろうが、ちと寂しい。いずこも人集めは大変なんだ。明日も練習。

 

 

2003年8月15日 (金)

お盆。

 ただの休みと化さないように、ちゃんとお墓参りに行く。真夏とは思えないほど柔らかな日差しの中、親子三代の女が墓を磨き線香を焚く。果たして手を合わせて祈ることまで同じかどうか、、、。多分違うだろう、、でも、私と娘が、おばあちゃんを早く連れてかないでと祈ったのはきっと同じ。お地蔵さんにも丁寧に線香を上げて、あとは遊技全開。夢タウンで2時間居て何一つ買わず出る。長尾町まで友人を迎えに行き、カメリア温泉へ。良い湯だったなと汗を拭きつつテレビを見ると、我がちぇちメンバーK君がニュースの真っ最中。しかも、高松で空襲を語る会があったという中身に、我が息子が映っている。まあなんたる偶然。扇風機の風に吹かれながら、いつになく見入ってしまった。あとは沖縄料理に挑戦するも、イマイチか。でもソウキソバはおいしかった。てなことでなんとなくボヤーッとした一日だった。明日は短歌の集まりがあり、そのあとは県民ホールへ、練習へ。休みが無いなあ。

 

 

2003年8月14日 (木)

トスカ

 連絡を貰って、ついに1ヶ月後に迫ったトスカの、初めての練習に参加した。余りに短い練習期間。さて、どうなる事やら。
 おかしかったのは、前回の我々の公演の指揮者のT先生が、本番の指揮者が怖い人だからとアドバイスしてくれたこと。なんでも、指揮者とは最初は怖い。意識的に怖くしているんだそうだ。で、何か言われたら全てこのTが悪いのですと言ってくれと、、、。
 今日の練習は笑いに満ちて、楽しかった。、、!

 

 

2003年8月13日 (水)

うどんと花火。

 子供達を歓待せねばと、我々夫婦は頑張っている。子供達だけならそうでもないが、それぞれのパートナーに気を遣ってのこと。しっかし、おどろいた!おっどろいたなんてもんじゃあない!「山越うどん」に行けば、3っつのパーキングが一杯で、その周辺に路上駐車の車が信じられないくらい並んでいる。その殆どが県外ナンバー!土浦なんてのもあってびっくり。一体このうどんブームは何故?
 諦めて宇多津の「岡泉」に行くことに。途中に「木村」というきれいくないがおいしいお店に。ここはかなりマニアックなお店で、知る人ぞ知るという感じ。おいしかった。当然混んでいたが。そしてお目当ての店は、これまた長蛇の列。まあ、ここは当たりはずれなくおいしいから、小田島雄志先生もお連れしたことがある。今日もホントにおいしかった。
 で、花火大会を、船上から観る。海の上から見るのは初めてだったが、まあ予想通りよく見えて楽しめた。新種らしき花火も良いのがあったが、オーソドックスなドッカ〜ンと上がる大きい花火にみんなの喝采が上がっていた。やっぱり花火はあの派手さが無ければねえ。
 息子が初めてガールフレンドを連れてきた。余りに可愛くて、予想以上に親しみを覚えたが、用心用心。この恋愛が本物かどうか未だ分からない。傷つかないように配慮した方が良いだろう。おばあちゃんはふんわりと彼女と話して、それなりに知識を得ていたなあ。それぞれの思いを乗せて、船は無事旋回して帰路についた。
 ごった返す帰途にふと見ると、息子がその子の手を引いていた。瞬間、幼い頃私に手を引かれていたあの感触が甦る。いつからか触れたこともない息子の手をその子が握っているのを見るのは、感無量だった。幸せになってくれれば良いなあ。

 

 

2003年8月12日 (火)

天国。

 松山からご機嫌で帰った娘夫婦と我々の4人でフランス料理店へ。ここのシェフとは昔からのなじみだが、今日はとびきりおいしかったなあ。フォアグラのマンゴー添えとかオマールエビはいつものようにおいしかったが、今日の驚きの料理はトマトのスープだった。どこが驚きかと言うに、スープの筈が、出てきたモノは固形のトマト。フォークでつぶすと中からスープが出てくるというもの。発想の意外さと味の良さにみんな心からの賛辞をシェフに贈ったもの。彼は自衛隊から転職したという異色のシェフで、声がやたら大きい。厨房から彼の怒鳴り声が聞こえると、ああ、今日もおいしい料理が食べられるなぁと思う。例の料理の鉄人と肩を並べる人で、この人の名前を知らない人はもぐりというくらい有名な人だ。ところが、風貌も態度も全然気取ったところが無く、笑わないで冗談が言える楽しい人。2時間半のフルコースが期待通りに終わる。ワインが少々強くて組んだ足がほっといてもほどけるくらいには酔ったなあ。グロッキー気味の主人を送り届けて、三人はカラオケへ。いや〜、遊ぶことはたくさんあるもんだ。
 明日も花火だしなあ。ふわ〜い。

 

 

2003年8月11日 (月)

眠いなあ、、、。

 まるで眠り病のように眠い。とはいっても多分これが普通なんだろう。午前1時だったら、眠いのは当たり前なんだろうが、寝るのがもったいない、というか、この深夜にこそやれることがあるんだけど、このところアルコールが入ると、すぐ眠くなる。じゃあ飲まなきゃ良いんだけど、この暑さと、かったるさでは、ビール飲むなと言われたら地獄〜。なのだ。今夜は350に押さえて、せめてまともに日記を書こう。夕べも誤字があったし、眠いときに書くのはホントに大変。
 今日はシャンソン教室の日だったが、みんな俄然やる気を出してきてくれて、発声練習を個人レッスンでしてくれと頼まれる。もちろん望むところ。いかなシャンソンといえども、基本的な発声無くしては自由で豊かな歌は歌えない。早速通常練習を前後1時間余分にとってのレッスンとなる。魔笛でゲスト出演してくれて、オペラの練習を見聞きして、自然発生的にこういう運びになったのはとても嬉しい。ひとりわずか10分程度だが、そのあとの歌に確実に出てくる。意識するだけでも変わるんだ。
 その前は娘夫婦とうどん屋を2件はしご。娘達はその足で松山へ。私は母を我が家の留守番に頼み出かけたというわけ。いつまでも便利な母親。
 シャンソンのノルマを果たして、今度は三本松のあるホテルへ、オペレッタ「長短」の作曲者に会いに行く。思ったよりお若くて素敵な方だった。和気藹々とお話していると、テレビでおなじみのラジオ体操の先生も通りかかり、ご一緒にとお願いして写真に収まって貰った。この方が体操の間、出す声がとても良い声で、その上ちっともしんどそうでないのが印象に残っていたものだから、そう申し上げると随分照れてらした。これまたお若い方だった。
 往復高速を飛ばして無事帰るが、実はこの車は主人の車で初めて乗ったのだ。我が愛車は娘夫婦が乗っているから、仕方なくお借りしたが、軽なのに室内は広くて、なかなか快適。車体が軽くて、120キロ出すとちょい不安だったし、前後の車が、こっちが軽だと思いっきり抜きの体制に入るのがしゃくに障ったが、まあ役に立った。大急ぎで留守番の母を送り、ちぇちの練習会場へ。帰ったら、雨に降られたと仏頂面の主人がぼそぼそと食事中。「あんら、ごめ〜ん」と本日ばかりは素直に謝る。私にとって要するに車は足なんだ。足がないと急にナンにも出来なくなることを再認識の一日。現代病か、、、。

 

 

2003年8月10日 (日)

ムコ殿到着。

 数ヶ月ぶりにムコ殿に会う。お互いますますふくよかになったわねえ、が私達の挨拶。空港まで出迎えた父親は行基の湯に連行し、自分の古里をアピールしたらしい。まあ何はともあれ、みんなが健康でお互いに良い関係を作ろうと集うのは良いこと。しっかり食べて飲んで、、ビールが凄いスピードで空いていく。豪快で気持ちが良いくらい。今回はすれ違うがこの上に息子が加わると怖ろしいことになる。まず家の中の空間が足りなくなる。部屋が狭くて仕方がない。、、、しかし家族が増えるのは嬉しいこと。明日はうどん巡りを。やれやれ付き合いの良い分太りそうだなあ、、、、こわ。

 

 

2003年8月 9日 (土)

どこまでも行く女三世代。

 遙か彼方のように思える綾上町に本格的中国茶を飲みに行く。流行っているからか若者が一組談笑しながら不慣れな手つきでお茶を飲んでいる。
こちらは、娘に手ほどきを受けながらジャスミン茶や白茶をゆったりと飲む。
 娘が、ひょっとしたら来年あたり中国茶専門店を一つ任されるかも知れないと、こともなげに言うが、母親としてはついその先を考えてしまう。じゃあ、子供はどうするの?とのど元まで出かかった言葉を飲み込む。何とかするんだろう。
 そこを出て、経営者が同じだという「餃子」専門店を訪ねる。いけどもいけども山奥だった。その山奥に150人ものお客が収容出来る餃子専門店があった。しかもそこは夕方5時過ぎでもう予約が一杯。かろうじて座れて注文もし食べることが出来たが、あとから来た人達がテイよく追い払われている。?「私達国分寺から来たのよ。どうしてくれる。。。」とかなり未練たっぷり。慇懃なお詫びがしばし続いて、やがてオバタリアンも諦めて帰っていく。この人達はきっと又行くに違いない。そうしたもんだ。
 思った以上においしい餃子にご機嫌になった三人は幸せ気分で帰る。娘と私は上乗せの幸せを求めてとある呉服屋へ。社長が友人のこの店には良い感じのカウンターお食事スペースがある。そこで男性従業員による、けっこういけるお食事が振る舞われる。本日は皇室御用達のそばと、上品な味わいの山菜炊き込みご飯にお新香が付いてなかなかのもの。娘の浴衣におまけが付いたというわけだ。この斜陽の呉服業界にあって、彼らはよく頑張っている。実はこの社長は我が娘にとって大先輩に当たる。というのも昔役者だったのだ。本人曰く挫折して東京から引き揚げてきた、とのこと。最初の10年は昔の仲間に会いたくないし、誰にも自分の転職について話したくなかったそう。この頃になってようやく堂々と名刺が出せる、というのだ。しかし役者の修業は今の仕事に大いに役立っているそうな。そうだろうなあ。お客商売はある意味演技のしどうしだから、、、。
 この日はこれで終わりではなかった。帰宅してから主人と三人でニューヨークから帰省中のK画伯を塩江まで訪ねる。娘は中国茶のお手前をすると道具を持参。久しぶりの再会に話しが弾む。ハート形のサングラスを貰ってご機嫌の娘は、至る所作品で埋まるこのアトリエに旦那を連れてきたいと言う。小さい頃から出入りして、この方達との交流の中から随分栄養を頂いたようだ。
 眠たいとぐずぐず言う父親を家に送り届けて、我々は温泉の前にナンとラーメンでとどめを刺した。おいしいが、さすがに全部は食べられない。時間を見れば午前0時。本日の帰宅は午前2時。眠くて眠くて、この日記は実は朝追記している。やっぱり早くは寝られないのだった。
 

 

 

2003年8月 8日 (金)

台風だあああ!

 今回の台風はのろ子だなあ。やいのやいのとテレビで言われて夕べから棚の植木を降ろして、お待ちしているが、とろっとろっと日本列島を堪能しながら来ているみたい。久しぶりに風の音を聞いているが、これからまだひどくなるんだろうか?まるでどう猛な狂犬が脅しをかけているようなもの凄い音だ。我が家のようなぼろ屋でも、屋根があって、一応安心してこの中で食事が出来ているのはホントに有り難いこと。今頃ホームレスの人達はどうして居るんだろう。駅が満杯かも知れないなあ。まあ、うちよりは駅の方が安全なくらいだから、賢明な生き方かも。
 日曜日は婿殿が来県の予定。久しぶりに楽しく過ごそうと、我が家は目下、彼を迎えての行事プランを練ることに熱中している。彼がホントに受容能力の高い人で助かる。矢張りご両親の影響か。人を不愉快にしないという点では、これ以上の人は余りお目にかからない。なんで内の娘なのか、、、可哀想になあ、、、!なあんてね。

 

 

2003年8月 7日 (木)

分かり合うということ。

 二人の人間が真の意味で分かり合う事って、本当にあるんだろうか?親兄弟恋人親友、いずれを見ても心許ない。ひょっとして、分かっているつもりでも、自分の都合に合わせてそう思いこんでるだけかも知れない。どの関係でも、そこに「裏切り」という行為が存在し、どちらかが、あるいは両方が「傷つく」という結果が生じる。別にショウペンハウエルを気取るつもりはないが、これが現実だろうと思う。
 では孤島に一人住んでいるわけでない我々はどう生きればよいのか。それは「許す」「受容する」という以外に方法はないのではないか。世の中に自分を含めて完璧な人は一人も居ない。そこに目を向けて、「優しみの心を持って、受容する」これしか自分を救う道はないのではないか。そう、自分を救わなくては!いづれ近いうちにこの世におさらばするほか無い我々は、せめてこの世をより幸せに過ごすべきなのだ。
 息子が沖縄の平和学会たらいうものに出たと、ある新聞記事にちょこっと写真が出て、記事共々メールで送ってきた。その中である外国人教授が「日常的な暴力、内面化された暴力こそが構造的な暴力であり、平和の創造を脅かす重大な原因である」とのべ、「一人一人の心の中にある敵意、憎しみ、絶望、無関心といった暴力の文化が軍事化に繋がる」と発言したらしい。これは以前から私が思っていたことと合致して、特に「暴力の文化」とはうまい事いうなあと関心。

 明日は台風直撃だそうな。

 

 

2003年8月 6日 (水)

学ぶことが多くなる一方の私。

 今日は何を学んだかと言うに、パソコンのファイルの添付。写真とか使って大きなサイズになってると、相手から拒否されるらしい。で、今の今までマニュアルを読んで研究していたが、まるで睡眠薬のように眠気を誘う文字列。どうも明日に持ち越すしか無さそうである。つ・か・れ・た。
 年とって、学ぶことが少なくなるかと思うに、全く逆。このところ毎日一度は人間関係で学習しているし、新しい知識も得ている。若い頃やり過ごしてきたことが、今は妙にこの身にまとわりついて解決を迫る。多分人と関わることが多く、いつも何かしら動いているからだろう。
 昔OLから美容師へと転向したとき、周囲から不思議がられて答えたもの。「5年もOLやっても、1年目の人と大差がない仕事をしている自分がつまらなくなった。10年続けたら10年やっただけの成長のある仕事がしたいと、そう思った」と。技術という部分では確かにその通りだった。しかし、絶え間なく変化する時代の流れの、前の方を走らなくてはイケナイ職業という点では、大いなる誤算だった。目まぐるしく変わる薬剤や器具に振り回される。この職業ほどいつも1年生で居なくてはならないのも珍しいだろう。ある意味で。
 まあだからして、ご幼少のみぎりの付けが今回ってきて、いつもいつもお勉強を余儀なくされるというわけだ。今日も新しいトリートメントが出たそうな。やれやれ。

 

 

2003年8月 5日 (火)

壮大なおとぎ話。

 パイレーツオブカリビアン、要するにカリブの海賊という、全くのおとぎ話だった、この映画。娘がどうしても見たいというターミネーターはイヤで、こっちがましかと入ったが、やっぱりオモロナイ。イマイチ。お互い見終わって、どうだった?と聞きあって同時に「ツマラン」と合唱。やれやれ。まあ、時間の浪費とまではいかないが、感動がない。ハラハラドキドキもちょっぴりで、物足りない。CGの技術は凄いが、まあ完全な娯楽。割り切れば良いんだが、、、。美しい若者が出てきて、まあそれを観賞するには好対象。それでもユーモアが随所にあるのは評価出来る。しかしもう少しその部分も突っ込んで欲しかった。どうも全てが浅い。おこちゃまの夏休み用の映画かも。
 本日突然T先生が我が家にお見えになる。9月のトスカのコーラスに出て欲しいとのこと。昨日までは迷っていたが、このご来訪で決心。そもそも迷っていたのはこのスケジュールの半分が既に埋まっていたからで、これを動かしたり、やりくりするのがホントに大変。しかし、自分の年齢を考えても、勉強するには良いチャンスかも。舞台でオーケストラが鳴ってるところで、歌ったりお芝居したりは一体ドンナだろうと、想像するだにわくわくする。考えてみると、オペラだって、壮大なおとぎ話であることに変わりはない。その中でうごめくちっぽけな人物になるのだ。面白そうだ。大いに楽しみ。

 

 

2003年8月 4日 (月)

総会が終わる。

 どうやら地震のためか、急遽来られなかったK・小唄殿以外は、予定通りの参加者で総会は進行した。33回の演奏会の大いなる反省会となる。いや全く、これでもかと反省のオンパレード。勿論それは悪いことではないが、、、。将来への決意とか、具体的な努力目標がチョー少なかったと思うのは私だけか。過去を反省しなければ今後の自分を立て直せないのは分かるが、過去は過去。しかし私は僕はこの目標に向かうのだ!という、若者らしい発言の一つや二つがあっても良かったのでは?な〜んて、やっぱりみんな「不言実行」こそが美徳と思っているのだろうか。でも、「有言実行」って案外気持ちいいんだけどなあ。そっか、初めて分かったぞ。Mariさんがいつも気持ちよさそうなのは、後者の方が多いからか。なるほど。え?彼女は若いかな?(精神年齢はひょっとして一番若いか?)ま、それはそれとして、みんなの奥ゆかしさには、大和撫子を感じたなあ、、。男性はナンと言うんだろう?外野が言う。ヤマトンチュウー、ヤマトタケルノミコト、ヤマトニ、ヤマトノオロチ、いやそれはヤマタノオロチだ。ヤマトダンジ、あ、ニッポン男児だあ!そうかい?ホントに?、、、ひょっとして、昔の日本男児を美的に表現する言葉なんか無かったのかも。
、、、ナンの話しだったっけ?
とにかく、まあ、奥ゆかしさの中に、決まるべき事は決まったからまあ、良しとしよう。、、か。
 実は本日は久しぶりに意識的に朝寝をして、(昨日の朝寝はミステイク)午後から念願の観音寺は琴弾回廊へと出かける。これこそホントの高速道路だあと一人感激している娘の運転で、少々胃を緊張させながらのドライブ。母は後ろの座席から「まあ」とか「ほんまに」とか「あらら」とか矢張り緊張の余り言葉少な。ともかくめでたく目的地に着いて、遅めの食事をしてからお風呂に。確かになかなか良い感じ。たっぷり入って、上手なマッサージ師に揉んで貰って、最後はびっくりするほどおいしい「宇治金時」に舌鼓。ダッシュで会議に間に合うように、今度は中年暴走族の出番。基本的に120キロでぶっ飛ばしてナンとか間に合う。いやあ、命がけだった。会議が終わって帰って夕食食べたのが11時。これがいけないんだよなあ。
 てなことで、本日も終了。

 

 

2003年8月 3日 (日)

ドジ、、、。

 夕べはとあることがあって、深夜二件の長電話。結局日記書いて寝たのは、午前3時半。で、翌朝の予約が朝9時だったから、寝過ごしてはイケナイからと、目覚まし時計を確認して眠った。が、目が覚めたら、9時15分。ぎゃ〜っと叫んで、どどどっと階下へ降りて、表を見るも、当然ながらお客さんはお帰りに。電話帳を探しているとご本人から電話。電話機に向かってすみません!と平身低頭。赦して下さって再来店して下さる。ホント内のお客さんは優しい人ばかり。
 幾らなんでもこんなことは今まで無かった。夕べは熟睡しようと入眠剤を飲んだが、その為、一度起きて目覚ましのベルを切って、又寝たらしい。起きたときの私の姿勢は、ベッドから降りてぺたんと座り、顔をベッドに伏せた状態だった。
よくぞこんな姿勢で眠れたモンだ。
 さて、明日は総会だ。レジュメが未だ出来てない。しっかし、眠いなあ。

 

 

2003年8月 2日 (土)

陰にあるモノ。

 会計のMさんから会計報告のチェックを依頼されて、あれこれやっている内に、実は虚しくなった。こんな風に数字にしてしまうと、表に現れた事実のみが皆の目に映り、陰で実際にあったことが出てこない。確かに大切な作業ではあるが、これさえ渡して、あとはシャンシャン、ではどうだろう?ホントはこの書類の裏側に、一杯苦労があって、それはいちいち書かないけれど、それぞれが思いやって貰うしかないのだ。ちぇちぃりぁが段々良い方向へ動いていって居るのを感じるが、この「人を思いやる気持ち」が育たない限り、こんな団体は続かないだろう。いわゆるボランティア精神だ。
 裏と言えば、「地獄の黙示録」ノーカット版というのがケーブルTVで放送された。この作品の評価が高いのは知っていたが、見るのは初めて。で、結論が「裏を考えないとこの作品の良さは分からない」だった。まるで歌うときのようにじっと集中して画面を見てないと、大事なものを見落としてしまう。ある意味タイムリーな作品だったが、強烈なメッセージが放たれている。そもそも黙示録が聖書の一部で語られているが、それはキリストの再来だから、それを悪魔の再来と描くのは、人間に対するこれ以上ない皮肉だろう。戦争が如何に現場で参戦する人々を心の病にしてしまうか、、、。この一点にテーマを絞った作品は、現代の日本人が是非とも見るべき作品だろう。本当に日本人は戦争に加担しても良いのか?我が子や兄弟を戦場でこんな目に遭わせて良いものか?ナンのために人間は学問し、芸術を高め、善人であろうとして生きているのか?全ての価値観を根底から覆す戦争というモノに、若者ももっと関心を持って欲しい。
 締め切りすぎても、短歌たった1首がどうにも出来なくて、担当のTさんに今夜まで待って貰う。で、約束の今日中にをあと2分のところで、えいやっと出したが、これが自分でもよろしくない。出来ないときは出来ないモンだ。やれやれ。
この頃心が枯渇してきてるのかも、、。用心用心。

 

 

2003年8月 1日 (金)

口のほくろのせい?

 食べることに縁がある。小さいときから、家族も食べたことがないようなものを食べるチャンスが多い。亡くなった父がよく言ってた。「おまえは口の側にほくろがあるから、食べることに苦労は無いだろう」と。
 本日も、今はやりの、多国籍料理だった。半年前から「飲みに行こう」が口癖で、しかし、今日まで時間がとれなかった私と友人は、食べに食べたし、したたか飲んだ。といっても飲む方は可愛いモノ。お互いに酒量が落ちたとぼやきながら、生中と酎ハイを各2杯。適度に酔って朗らか度がアップ。良いお酒とあいなった。ゲップ。
 それにしても、何故か今日は朝から眠いなあ。アルコールが入ってもう我慢が出来なくなって、今目覚ましにシャワーを。やることがいくつか頭の中でグルグル回っている。
 さて、、、、やっぱ、寝よ。

 

 

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